続いて光 いくつもの

宮内勝典『南風』

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「あの戦後の貧しい一時期、この土地の空間はただ均質にひろがっているのではなく、嶽山を中心にして一つの同心円をえがいていたような気がする。その円のなかで人々が暮し、きちがい豊がどこかをひた走り、女郎たちが化粧の仕上げを急いでいた。そして本坊さんという一人の行者が、その要で、静かに世界を担っていると感じられることもあった……。」

 

著者は、自分の見ている世界と母の見ている世界、友だちの見ている世界は違うもので、自分が帰ってくるタイミングでいつもの家や母が現れているだけなのではと感じる。

それを暴くために学校を早退するも、彼の帰宅を予知したかのように、家はいつもと同じように存在して、シラを切り通している。

 

そんないくつもの世界を通り抜けていく唯一の存在に見えたのが、きちがい豊と呼ばれるおじさんだった。

夕方になると決まって全裸で街を走る。何か決まった規則に命じられているように、さまざまなルートで。

 

少し違うけれど、今日、駅の構内にカラスが入って暴れていて、通行人たちの注目の的になっていた。

仕事帰りの大きな交差点では変なパフォーマーや、音楽を奏でている人たちがよくいる。

そうした、いつのまにか陰から空間を支えてくれているような人たちは良いなあと思った。

 

現代とは違った生命観をもって人々が暮らしていた土着の風土、それを描いた小説に惹かれる。

私は、現代の機械的な世界が嫌いだったのかもしれない。

自然があり、神がいて、人がいた日本の社会。

実は「飼育する少年」においても、少年は機械的な世界からこうした社会への気づきを得ているように見えてきている。

 

宮内勝典は命懸けで小説を書く人で、『グリニッジの光を離れて』もよかった。

お気に入りの作家になった。

 

 

2022/05/29追記

データ分析とか合理主義っぽいものが好きじゃない。そうした詰まらないものが、「熱帯の海から黒潮に乗ってくる魚の大群も、もう母なる海の恵みではなく、いまではただ鰹節の原料にすぎなかった。」こういう世界を作った。私は、魚の大群が母なる海の恵みであり、「火口壁の向こうで静かに世界を担っていると思えた行者」がいる世界に生きてみたかった。そこには「爆ぜるような燃焼」があり、とてつもない苦しみや呪詛があり、私はすぐに、現代の世界に憧れてしまうかもしれないけれど。