続いて光 いくつもの

メルヴィル『白鯨』

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19世紀アメリカ文学の最高峰、1300ページもあるのだが、3週間掛かったが最後まで読めてしまった。世界文学の超大作に挑戦してみたのは、初めてはトルストイ『アンナカレーニナ 』で、2ヶ月くらい掛かって何とか読んだが疲れ果ててしまったのを覚えている。それと比べると今回は、結構楽しみながら読めた気がする。長文への慣れなのか、『白鯨』の、あるいは講談社文芸文庫の翻訳の文体が、私の感性にとても合っていたような読み心地の良さがあった。

 

あらゆる小説には影響関係がある。それなりのクオリティで書かれた小説は、何かしらの先行する文芸作品を下敷きにされているものだ。たとえば村上春樹の小説は当時のアメリカ文学を非常によく研究して書かれたものだと、言われている。日本人作家の小説は影響関係が見えにくい気がするが、海外の小説では明らかに聖書や神話、シェイクスピアや近代の詩から多くの引用がなされる傾向がある。というわけで、今回『白鯨』を読んで私は、薄井ゆうじの小説はアメリカ文学に影響されているっぽいな、と思った。

 

『白鯨』→村上春樹、『白鯨』→薄井ゆうじ、村上春樹→薄井ゆうじ、という3つの影響関係があるように見えてきたのだ。

 

『白鯨』では、巨大な鯨の白骨標本が、緑であふれた森の中に置かれている場面が描写される。生が死を包み込んでいる、などと表現されるのだが、これを昔、村上春樹の小説でみた覚えがある。「死は生の一部として含まれているのだ」みたいな内容を、わざわざ太字で強調してある小説があったはず。また、この『白鯨』における森は、縦糸と横糸で織り込まれた織物に例えられている。この描写はどことなく薄井ゆうじ『樹の上の草魚』を思い出させた。

 

薄井ゆうじ『くじらの降る森』には、題名通り「鯨」、そして「白」、「神」、「死」といったモチーフが現れる。これはどれも完全に『白鯨』に一致する。『白鯨』の語り手イシュメールは、金銭や不誠実にまみれた「陸の世界」に何の魅力も未練も感じなくなり、あるがままの自然の原理が支配する「海」へと出て行く。『白鯨』は当時の白人文明への批判を暗示したものと読める小説だが、ここにはいわゆる「マジョリティ」への批判も込められている。生きて死ぬのが生物の本来の定めであり真実であるにも関わらず、世間の人々は墓場を見ないふりをし、楽チンな娯楽へと逃避する、といった描写がある。

こういうところが私は好きだなと思ったのだが、これは『くじらの降る森』も似ている。『くじらの降る森』の語り手も、暖かい家庭から離れて、「森」の中で自分だけの傷を作り続けようと決意する。この小説にも、書かれた当時(バブル・バブル崩壊直後)の軽薄な風俗を批判するような描写がある。名前もろくに知らない男と遊びまわる少女を軽蔑し、世間体やごくありふれた没個性を軽蔑するのだ。そうした「世間」に抗って、ひとり「森」の中で絵を描きつづける青年を、語り手は尊敬する。しかし「世間」に抗う生き方は厳しく、青年は「森」の中で、真っ白になって死ぬ。青年を弔ったあとに語り手が行う決意、そして行為こそが先に述べた、暖かい家庭を去って「森」の中に入ること。自分の中にひそむ「世間」を振り切って、自分だけの生を生きようとすることである。

さて、この「森」に、白いくじらがたくさん降ってくる幻想的な場面で『くじらの降る森』は終わる。これだけ長く語ってきて何が言いたかったかと言えば、この「森」は、『白鯨』でいうところの「海」に対応しているということだ。『白鯨』の語り手が世間を離れて海に行くことと、『くじらの降る森』の語り手が世間を離れて森に行くこと。ここに私は、『白鯨』→薄井ゆうじという影響関係を見て取るのである。

 

『白鯨』にはさまざまな二項対立の概念が登場する。文明人と野蛮人、白と黒、生と死、陸と海、正気と狂気、凪と嵐、などなど。しかし船には文明人と野蛮人が混合し、死は生に包まれており、嵐の前には凪があり、地上における狂気は天上における正気となる。

 

特に正気と狂気について。『白鯨』は、モービィ・ディックという名の白い鯨に片脚を喰われたエイハブ船長が、白鯨への復讐に狂気の追跡をする話である。このエイハブ船長の言葉というのが、この小説でいちばん難しい。狂っているから。ピップという黒人少年がいて、彼も航海中の事故で狂ってしまうのだが、狂ってから急に登場頻度が上がる。そしてやはり、その言葉が難しい。この世界において、「論理に支えられた明るい側面」の側に通常の私たちはいる。こちら側からは見えない狂気の側面が、天上においては正気であり、真実となると小説は語る。この辺りについて、『白鯨』の再読や今後の読書に譲りたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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