続いて光 いくつもの

精読・『飼育する少年』②

私の力不足もあって、何度語ってもこの小説の魅力や意図するところが伝わらない感覚があり、また何度も新たに語りなおすことになってしまうのであるが。このような短い小説でも内容は複合的であり、20ページ分の文章を使って書かれているからには「この小説の主題は〇〇です」というまとめでは収まらない何かが含まれているのだ。だからどのように語っても、原文のニュアンスを取り逃がしているという感覚は正しいものだと思っている。

 

さて、「精読」がどういう意味かあまり分かっていないのだが、今回はこの小説の主題について掘り下げてみたい。具体的にはまず、開成中学の入試問題で使われた際の問題と、参考書にのっているプロの塾講師による解答を紹介する。それから私としては少し腑に落ちないという点を述べて、自分の解釈をひとつ付け加えてみる。

 

 

 

開成中学入試問題では、160字の大型記述として以下のように出題された。

「この小説の最初に、「星がきれいだなんて思ったことは一度もない」とあります。一方、最後の部分に、「都会の星がこんなにきれいだなんて、いままで知らなかった。ーー僕はキリンを飼っている。少年はそう思った。そして、だれもいないひっそりとした屋上でひとり、長い時間、街を見下ろしていた」とあります。少年にとって、「キリン」とはどのようなものだったのでしょうか。少年は、なぜ都会の星がきれいだと気づくことができるようになったのでしょうか。」

参考書にのっている解答は以下の通り。

「「キリン」は、少年の「動物を飼いたい、背が高くなりたい」という願望の象徴である。「キリンを飼う」ことはその思いを具現化することであり、少年は、勇気を持って積極的に自分自身を変えていこうとした過程で、「キリン」と出会い、精神的に自立した。だから、周りの世界に対して素直に心が開かれ、都会の星の美しさにも気づくことができた。」

 

この小説について知る上でとても参考になったのだが、しばらくして何度か小説に目を通していると、やっぱりなんか違うなあと思えてくる。どういう解釈をするにせよ、再読すると別の側面が見えてくるというのは、小説の読み方として間違っていないだろうとは、すでに述べた。だがやはり、そもそもこの160字の解答にはしっくり来ないものがある。「精神的な自立」というこの解答が提示している小説の主題が、少し広すぎるように思う。実は開成中学入試問題では、『飼育する少年』は途中が省略されている。それもあるのかもしれない。省略された部分には以下の場面がある。

「不意に、体が大きく上昇していくのを感じた。つぎの瞬間、床から八メートルの上空に少年の体があった。世界一、背の高い動物。少年は図鑑で読んだ文字を頭のなかで思いだした。街が小さく見える。すべてのものが小さく見える。ーーああ。少年は深い溜め息をついた。」

私の好きな場面であり、少年が新しい世界へと踏み出す瞬間の、重要な場面と思う。だが、「精神的な自立」を味わった人間は「街が小さく見える」ような感覚を覚えるのだろうか?「精神的な自立」にはかなり多くの種類があるはずで、「街が小さく見える」というのはその限られた種類のものに伴う感情のような気がする。つまり少年の境遇を「精神的な自立」とまとめられると、ちょっと大雑把な気がする、というのが私の腑に落ちないポイントである。もう少し、「〇〇なタイプの人間である主人公の、〇〇という形での精神的自立」くらいにしたい。

 

ではどうしようかと言うことで、私の解釈として次のようにしてみた。

『飼育する少年』は、「繊細な芸術家気質の人間である少年が、自身の内に秘められた力を自覚する」話である。

まずこの小説は、「繊細な芸術家気質の」読者に届く小説だと思っている。「芸術家気質」というのは実際に芸術をやってるとか才能の問題ではなく、なんとなくの性格的分類のつもり。「繊細さ」という点はまだしも、主人公の少年が「芸術家気質」であるとは作中からは必ずしも読み取れない。犬の絵を描いている描写があるくらいか。しかし私には『飼育する少年』は「芸術家気質」な人間を描いた話に見えるのだ。「僕はキリンを飼っている」と少年は噛み締めて思うが、これが「僕は他の人にはない、自分だけの世界を持っている」という意味に見える。自分だけが持つ世界を自覚している芸術家は、その「自分の世界」を親に説明したりしないだろう。以下の場面がとても重要で示唆的である。

「ーー言ってはならないのだ。キリンを飼ってもいいかなんて、父親に訊いたりしてはいけない。そのことに少年は気がついたのだった。すでに僕はキリンを飼っている。そのことに親は気づかないかもしれない。いつかは気がつくのか、それともずっと気がつかないままなのかはわからない。だが僕は、自分からそのことを言ったりしてはいけないのだ。そのことに、たったいま気がついた。あのキリンは、僕だけのキリンだ。」

ここには警察官の息子として生まれながら、転校生として孤独に育ち、イラストレーターや小説家として大成した薄井ゆうじ自身が投影されているようにも感じる。

 

この小説は終始主人公の独白が多く、他人と言葉を交わす場面はかなり少ない。この「他人」には両親も含まれている。「繊細で孤独」というのが全体に通底している雰囲気である。その主人公の少年が「自身の内に秘められた力を自覚」したからこそ、街が小さく見えたのではなかったか。自身の内に強く広い世界があるから、外界の街が小さく見える。「ーーああ。」という少年の感慨は、外の世界に向けられたものであると同時に、内なる自分の世界に向けられたものなのだ。この内なる自分の世界がそれなりに強く広いものでなければ、「ーーああ。」という感慨は出てこないし、街が小さく見えるという体験はないように思う。だから繰り返しになるが、これは「繊細な芸術家気質の」人間の小説だと思う。芸術に携わっているか否かではなく、強く広い自分だけの内面世界を自覚しているという意味での。

あと、「キリンとは何なのか」という問いが出題にも込められているが、この「キリン」を作中では少年以外に誰も認識していない。少年としてはこれまでの自分では考えられない積極的な努力でキリンを飼うことに成功した訳だが、それが現実になんらかの成果を生んだわけではない。少年以外の誰もキリンを認識しないまま、最後にはそのキリンが実際には存在しない、少年の心の中だけの存在ではないかとすら仄めかされて終わる。だから私にはこのキリンが、芸術家たる少年にとっての作品に見えるのだ。芸術家として名を上げれば、自分の作品は人々に読まれて、世の中に存在する形となる。しかし無名のままでは、作品は世の中にとっては存在しないも同然の、芸術家の心の中だけの存在に近いものである。少年は自分の内側に、自分だけの世界を自覚した。「僕はキリンを飼っている」すなわち「僕は作品を作ることができる」と、少し自信をつけた。精神的な自立を得たということも出来るだろう。「キリンを飼っている」と信じることが、現実において良い効果を生んでいくだろう。その「キリン」は、世の中的には存在しないものだっていいのだ。本当に存在するものなのか、それとも心の中だけの存在なのか、それは神のみぞ知るところである。

 

繊細な芸術家気質の人間が自身の秘められた力を自覚する、というのは私にとってクリティカルな事だったのだろう。それは正しく私の身に起こったことであり、あるいは起ころうとしている、未来に起こるべき事なのである。自分にとっての切実な問題と重ね合わせて作品を読んでいたからこそ、「精神的な自立」という一般化では納得しきれない。そして自分のことを理解して受け入れることが未完了の私では、作品の解釈を考えてみても常に不十分であり、一応の納得をつける段階に至るまでの今は勉強途中なのである。

論理的に論を展開していく努力も足りないが、とりあえず今はこれで。