続いて光 いくつもの

清岡卓行『アカシヤの大連』

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元々詩人だった著者の、初めての小説である。冒頭の数行はそれこそ詩的な雰囲気があり、なんとも言えない良さがある。音楽的なリズム、などと解説に書いてあった気がする。

「夜ごと、眠っているあいだに、頭の中の奥深くでいったいどんなことが起っているのだろう?そこでは、自分の知らないなにかしら微妙なことが繰返し起っているにちがいなく、それが、毎朝の眼覚めを、言いようもなく悲しいものにさせている大きな原因ではないかと、彼は思うのだ。」

 

薄井ゆうじ『飼育する少年』について精読というのをやってみたが、結局、自分が作品を好きになるときの感覚を論理的に説明したいとはあまり思わない。『飼育する少年』という小説の主題(テーマ)とか、それがどのように巧みな構成で描かれているかよりも、私がこの短い小説に固執する1番の理由は、ひとつひとつの文章から滲み出る何となくの想い、説明したいとは思わない「何か」なのである。人との出会いと同じなのだ。

たとえば「星がきれいだなんて思ったことは一度もない。」「少年は段ボール箱に近寄ろうとして思いとどまり、両手で耳をふさいだ。ーーあのなかには、見てはいけないものが入っている。」といった内側に潜り込んでいくような屈折した感じ。「そして、誰もいないひっそりとした屋上でひとり、長い時間、街を見下ろしていた。」といった繊細で孤独な感じ。でもこうして文章を抜き出してみても、なんか違うなあと思う。厳密な意味で私が本当に伝えたいことは、『飼育する少年』という元々のテキストを小学生の頃から何度も読んだ、私個人の想いなのであり、それは他者に伝達するのは完全には不可能なものだからである。

 

小川国夫の『東海のほとり』も私にとって言いようのない良さがある。

「私は二人にはいえないことを持っている。父にも母にも……。じめじめした想像がこれだ。当時私は、今書いているような想いを不当におとしめて、いわば私生子のように思い込んでいた。私の家は味のない健康な田舎の中流家庭だった。私の通った小学校、中学校も多分そうだったろう。それに私の自信は、幼い頃から育たなかった。隠さなければならない自分は、益々多くなって来た。」

やはりじめじめドロドロと内側に潜り込んでいく、陰気な内省。ちなみに『朝の悲しみ』『東海のほとり』はそれぞれの著者の処女作にあたるようだ。初めての小説を気にいるというのも私は多く(安岡章太郎『ガラスの靴』とか)、これはそのうち自分で納得できる小説を書いてみたいと漠然と思う私にとって、参考になりそうという思いがあったりするのかもしれない。

 

縁あって仲良くしてもらっている元舞台俳優の方に「重心が下の方にあるイメージ。職人みたいな。」と言われた。昔から気難しいとか自分勝手とか家族に(冗談めいた口調ではあったが)言われ、気にしていたのだが、やはり孤独であるということが私にとっては大切なことのようだ。人間関係をうまくいかせるためにも、むしろ。大学生の頃は協調性を伸ばそうとしていたのだが、途中で止めてしまった。そこで学んだことが生かされているというのは有るが、自分の思い・したいことベースで生きる方がうまくいくようだ。協調性を重んじてうまくいく人は、多分それが自分のしたいことなのだろう。私の場合は合わない人とは合わない、機嫌の悪いときはある程度そのまま機嫌悪い、その分をどこかで還元する、というのが結局うまくいっている。

 

良いなと思う作品を並べると、日本人作家の短編、という偏りがある。これはまず、海外小説を読んだ量が少ないからだ。段々と読み始めていて、最近ではバルザックゴリオ爺さん』とか面白かった。日本の小説には感じたことのない、長編の「劇」としての完成度だった。ただ長編となると、自分の文章で感想を、というのが中々できない。短編よりも内容が複合的になるから、あっさりとした単一目線からの感想ではあまりに取りこぼしが多いような感覚で、うまくいかない。長編というのはもっと深いところから自分を支えてもらって、人生で何度も繰り返し読んで理解していくものかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

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