続いて光 いくつもの

川端康成『雪国』

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本当に失礼なことに、これは『雪国』への文章であることを装ったただの自分語りであることを明記しておく。『雪国』はたしかに最近再読して、詩的で、序盤の数十ページがとにかく素晴らしいと思ったこと、かつて初読したときよりは色んなことが読み取れるようになって大変面白かったこと、は書いておく。

 

昨年9月に明確に思いが変わる出来事があって、だからブログがその辺から更新されてないことに納得感がある。本当にとても沢山のことがあると自分では感じるのだが、幾つかだけここで今書いておく。

 

私はおっくんと大学のとき呼ばれていた。「おっくんはそのままでいいよ」というたぶん何気ない言葉が一つ。そして、俺が身の丈に沿うときどうなるんだろう?と自分本来のあり方がどういう風であるかを思って生きていたのがこの半年ちょいなんだと思う。

 

たぶん色んなヒントがある。行き過ぎて「カオナシ」状態になっていないか?「吐瀉」ということが千と千尋の神隠しのキーワードの一つであった。希望や未来、資本主義的とも言える進歩がおれには必要に見えるということ。それが認めたくない事実の一つなんだろう。

進歩すること自体が目的。今ここで直面したくない。弱くて逃げてしまう。だから距離が近くなりすぎるとおかしくなってしまう。

 

やっぱり、悲しい。この人たちが心の底からうらやましい。そんな思いもあった日々だった。

 

本当は生きてて楽しくなんてないのかもしれない。それでも、「まあいいか」とすぐに思えた日があった。本当は意味なんてないのだけど。でも、けっこう生きてて楽しいのかもしれない。そんな思いがあったのが、この2年ちょいだった。本当にたくさんの愛を貰った。私はそんな愛に、ふさわしくはない。それでも何か、それに応えるべきだと思うことが、私の人生を少しだけ、でも確実にとある方向に引っ張ってくれている。ただ、そこにも批判の目が向けられている。