続いて光 いくつもの

魯迅『祝福』

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の映画を見た。小説は読んでない。

 

京都市近代美術館で3ヶ月に一度映画をやっていて、520円で常設展まで入れる。

前々回の「魚影の群れ」、前回の「牝犬」、今回の「祝福」ととても良かった。

 

1950年代の中国映画。

 

夫を亡くした女性が、妻を欲しがってる男に売られていく。

抵抗するのを男2人が無理矢理拐って、気絶したのをいいことにその首元を掴んで人形みたいにお辞儀とかさせて、婚礼の儀式を勝手にやってしまう。

男は女性を手配したことで大金を貰い、これがとても旨そうに陽気に酒を飲んで宴会をする。

 

「持つもの」や他人を蹴落として裕福な暮らしを得るものが、本当に腹が立つ人物として描かれていた。

「コロセ!」という内なる声が、観客の私の中から聞こえてきた。

 

まだいくか…というくらい女性の不幸は重なって、かなり重みのある作品だった。

 

雪の場面がたくさんあって、後半で女性は雪を見ると、いつも同じ後悔のセリフを繰り返すようになる。

でも、神さまに寄進すれば救われると聞いて、一年がむしゃらに働いて、その金でお寺?の敷居を寄付する。

これで救われたと思っている女性は、雪の降る場面を歩くが、それまでのような後悔のセリフはなく、晴れやかな顔がある。

 

このへんの演出もとても良かった。

 

そこからさらに不幸があり、もう雪を見て後悔する言葉も言えないような姿になる。

ブッダがなんだ」神さまは救ってくれないじゃないか、というのは当時の大きな問題意識だったのかな。

宗教がもはや権力になってしまって、中世が限界を迎えて以降の。

 

 

 

オンライン読書会に2度参加したことがあって、元舞台俳優の人と知り合った。

その人がこないだKindleで小説を出して、とてもしっかり書かれていて面白かった。

知っている人が書いたということもあり、荒削りで剥き出しの、ナマの感覚が伝わってくる気がした。

 

必ずしも作品のクオリティによらない面白さというのもあって、地元の小さな劇団の公演を見に行ったのも楽しかった。

過ぎた時代の世界的評価の高い作品を見るだけが楽しさではないということ。

 

薄井ゆうじへの課題小説は3作目が完成しつつある。

5年くらい会ってなかった知り合いが連絡くれて、読みたいと言ってくれたのでその書きかけのやつを送った。

その人も自分で小説を書いてみようかと言っている。

 

小池桂一の漫画が面白かったから、単行本になってない作品の載ってる雑誌を買った。

90年代に仏教系の新興宗教が出してた雑誌みたいで、少し怖かったけど、アジアの神話とか祭儀を解説してる普通の?文章で面白かった。

最近仲良い友人とは「そもそも人間とは」「そもそも世界とは」みたいな話をして酒を飲みまくる。

 

なんかそういう人間関係を引き寄せられているのかもしれない。

 

コロナ禍でなんかせなと焦って寄付してたのがきっかけで知ったフリースクールでのボランティアは、私自身の居場所になっている。

1番仲良くしてくれてる子が3月で卒業するから、どうなるか分からんけど。

 

機械学習エンジニアの仕事は、自分があまりにも恵まれた環境にいるのが不安でもあった。

私にはラッキーボーイなところがあって、今の資本主義社会において、結局上手くいってしまうような性質を備えてるんだと思う。

『祝福』にもあった、他人を蹴落とす側の人間であることから逃れられない気がして、嫌だったというのがある。

でも今の仕事はとりあえず続けていいのかなと思っている。

 

あとは家族のことを考えたりする。

本当はこれが、私の一番切実なテーマなのかもしれない。

 

昔からの友人がもっとイキリたいと言っていて面白かった。

私も冷静になるばかりよりは、イキって馬鹿をやって恥をかいていたい気がする。

最近やってないなあと思ったけど、よく考えたら友人宅で飲んでほとんど記憶なくなって、コンビニで奇声を上げていたばかりなのだった。