続いて光 いくつもの

田川建三『イエスという男』

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何ヶ月もかかってゆっくり読んでいた。大学を留年していた頃、単位にも入らないのに一般教養の宗教学を何度か受けに行った。そこで教授が、俺ら世代の宗教学者はみんなこの本を読んでいた、ただしこの人の書き方はクセがある、と言っていて買っておいた本だ。

 

この本を読むにはかなり時間がかかる。この田川建三という人はとても信頼の置ける人だとわかる。私にとっての信頼とは、どういうものなのだろう? 書き殴るように本を出しまくるベストセラー作家が、あまり好きではない。自分が気持ち良くなるだけでなく、自分の行為が与えている影響を熟考している人を信頼してるんだろうか。だとすると、私は自分が気持ち良くなるような強い者でありたいという気持ちとその素質を一部持ちながら、そのような者ではあれない(熟考してしまう、熟考する者でありたいと結局は思う)から、そっち側に振れている人間を信頼したくないし嫌いなんだろう。

 

エスを、キリスト教の先駆者的な抽象的なものとして描くのではなく、現実に生きてあらゆる支配に反抗した生身の人間として描こうとするのがこの本だった。一つ思ったのは、私は現実に即している本しか好まないということだ。「本好き」と自称する人はだいたい平和なファンタジーが好きなので、話が合わないのはそういうことだろう。私は現実を生きるために本を読んでいるに過ぎなかった。

 

今、週5〜6で子どもと関わる仕事をしている。目の前の仕事、子どもに意識を向けている。そこには難しい論理は表立って現れてくることはない。今の生活に読書が「役に立った」とすればそれは、色んな人の語り口を自分なりに本気で聞き入れつづけたことによる、ひとりひとりに柔らかく接して受け入れる姿勢だろうか。

 

とにかく、少しは読書も続けていくと思う。「一軍」みたいなお気に入りの本は、それだけ別の本棚に並べているが、すべてこのブログに書いている。読書とは極めて個人的なもので共有が難しいように思うが、ここに私自身気付こうとはしていない個人的傾向は表現されていることと思う。

 

 

1/31追記

Twitterで「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」みたいな50歳の人の投稿がバズってた。

まあわりと真理かもしれんけど、これは50歳が感じてるから意味がある。若い人は(若くない人でもいいけど)自分のために何かを集めたり、時には人に与えることをしなかった経験をしていって良い気がする。その結果、50歳になった頃に、結局、与えたものこそが残るってのが真理やわ、と悟る一連の流れの意味を考えてほしい。人は過去のことを都合よく忘れて、解釈してる。「おじさんの説教」が嫌われるのはそこにひとつの理由がある。「真理」にたどり着くまでのことを忘れて、「真理」部分だけ取り出す。

『イエスという男』で、イエスが支配への反抗として身をもって語った言葉が、いかに後のキリスト教団によって丸めこまれ、骨抜きにされるかを感じた。反抗としての言葉が、キリスト教という体制を作るために使われる。体制は新たな支配を生む。

自分を大切にすること、自分のために欲しいものを集めること。それをやった上で、でも与えたものの方が残るんだよね、の順番が必要。そうでないと、若くて素直すぎる人が自分を幸せにすることなく与えることに気を揉みつづけたとき、どうなるか? その人の存在を、あとになって他人が美談にする。「あの人は苦労したけど、あれこそ人の本当の美しい生き方なのですよ」。このようにして「美談にすること」は現実の悲惨をおおい隠す役割をも果たす。