清水博子『街の座標』
不潔な文体とか評されるらしいが、私には、誰の言うことも聞かない、どいつもこいつも下らない、という厭世感と孤立感が目についた。
「わたしはひとと接して自分にない長所を学ぼうとか、社会経験を積んで人格を磨こうという健気な発想とは無縁だし」「たとえ本人と対面する機会があっても、彼女から薫陶を受けようなどというつもりはない」
平凡な読者は、自分の好きなように本を読む。
薄井ゆうじやこの小説に、私は自分の中にあるものを読んでいる。
それは厭世であり、だからといって自分自身も詰まらない人間である、そういう軽薄な自分との闘い。
俗物への嫌悪感。
絶対的なものの探究心とも繋がっているかもしれない。
特定の個人への執着も、この小説に書かれていて私にも含まれている素質である。
上で引用した部分は、私のポリシーとは異なる(私は他人から教えを受けたい)。
でもたとえば川上未映子よりもこの人の方が好きだ。
弱そうなものの味方をしたがる、ただの判官贔屓だろうか。
一応、いろんな本を読むようにしている。
最近はユゴー『ノートルダム・ド・パリ』や阿部公房『死に急ぐ鯨たち』という評論を読んだ。
でもブログに書くのも、「1軍」の本棚に置くのも、自分自身につながる本を選ぶ。
それでいいのだと思うし、むしろもっとバランスを取ろうとしなくていいかもしれない。
自分の中のバランスが取れている楽さを覚えると、バランスを壊すことは中々できなくなる。