続いて光 いくつもの

尾崎翠『尾崎翠全集』

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最近、小池昌代を読み始めて、面白いなと思ってたのだがなんとなく読むのを止めてしまった。

文章の詩的なリズム、才能は間違いないのだが、「私って凄いやろ」「私の描く美しい文章を見て」的な自己満を感じた気がする。

なんかこう、心が篭ってないというか、読んでも意味ないな感というか。

結局、書き手をそこまで好きになれなかったのだと思う。

 

小説なんて読んでも意味ないのが当たり前で、これは読む価値があるなと思える方が凄いことなのだ。

薄井ゆうじも、小池昌代のような不思議な短編をよく書いた。中には読んでも意味ないな感を起こさせる作品もある。

でも読み手の心を打つ作品も、沢山ある。

薄井ゆうじは意図的に「読み手のために」書いてるらしい。

デビュー前にシュールな、意味のよく分からない小説を好んで書いていたら、師匠からそれではダメだと言われたらしい。

 

尾崎翠が「読み手のために」小説を書いたかは謎だ。つまり、露骨に読み手を感動させたいと書かれた小説ではないように見える。

しかし自己満足とは決定的に異なる何かがある気がする。なんだろうな…良い人によって書かれると、たぶん真心がこもる。

「他者への想い」が、(薄井ゆうじのように)意識的にか、(尾崎翠のように)無意識的にか、作品に投影されている。その想いが自分に向けられていると思うとき、読者はその作品を大切に感じるのでは。

だから、尾崎翠はきっと良い人だったのだと思うし、少なくとも私は尾崎翠という人を好きになったと思う。

 

 

尾崎翠の小説では、ほとんど恋愛がテーマだが、その恋愛は始まらないことが多い。

『こおろぎ嬢』の主人公は、今は亡き異国の詩人に密かな恋をする。

第七官界彷徨』では、終盤で出会った男性に恋するが、彼は旅立ってそれ以来会わず終わる。

『花束』の主人公も、一度きり会った男性とのときめきを、後から追憶することを幸せと感じる。

『初恋』は、とある事情で初恋がすぐ終わってしまう小説。(というと詰まらなさそうだが、ネタバレ出来ないからこう書くだけでめちゃくちゃおもしろい。初めての尾崎翠には1番おすすめなくらい。)

 

思えば薄井ゆうじも、「始まらない」小説が多い。

いい感じになるけど、なんとなく躊躇して、言い訳して、セックスには至らない。主人公はなにも行動を起こさずに、留まることを選んでしまう。

 

こういうのが、私なのだ。

自分の感性を躊躇なくドーンとぶつけた小説を描く、そういう強さを胡散臭く感じる。

もっと逡巡の跡や、他者に向けられた労力の跡。そういう弱さ・優しさ。

始まりもしなかった恋を思い返すことを幸せとする。あるいは訳もわからず留まり続け、機会が過ぎゆくのを見つめる陰湿な愉しみ。そして過ぎゆけば、やはり思い返すことで幸せを感じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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