続いて光 いくつもの

4ヶ月前の日記

オルタナティブスクールのような、子どもたちで議論をし合い、主体性と個性に基づいて、決められた詰め込み教育ではない自分なりのカリキュラムをこなす場所で育ったなら、どうなっていただろう。

私は真面目すぎてしまった。人間関係の下手さを、勉強という決められた枠の中で泳ぐことで乗り越えてきたのはたしかだ。けれどもその後、私は人間関係を鍛える方向にみずから向かった。私には元から、素質があったのだ。枠の中にいる自分の限界をしっかりと見つめて、本気でそこから抜け出そうとすることのできる人間だった。

高校生のころはもっと語りたいことがあった。何をしでかすかわからない、カリスマでも少しあった。世界を一度壊してしまったのはどうしてだったのか。偶然か、それとも意識では捉えられない計算があったのか。私の一番の作品は、高校生のころ彼女ができたのにキスもまともにできず、初めてのことに何が何やらわからず幸福を感じられなくて、論理的に自分を追いつめに追いつめて一種の神秘体験のような状態にまでなった、日々の赤裸々な日記だ。それから人間のことに知り、小説のことを知ったのに、もう語ることのできる魅力的なものは無くなってしまっている。

自分よりすごい人間はいないなどと言いながら、今の場所に安住するとしたら、それは心の奥では自分よりすごい人間がいることを認めていて、目を背けたいからだ。そんな論理的なストイックさを私は持っていた。どんな場所でも実際に勝って見せると思っていた。父が、勝ち負けにこだわる人だったから。それに元々から負けず嫌いだった。

 


俺はすごいということを、認めてほしい。かっこいいな。って言ってくれた人もいた。

自分の限界に立ち向かっていくことをすごいと認めてほしい。親とかは自分のまま、限界はそのままにして活躍すればと思っている。認められないから、今だに限界に立ち向かおうとする?認められたと感じれば、限界はそのままにして、自分のあるがままを伸ばして活躍していくだろうか?それとも限界に立ち向かうこと自体を、好んでいるのか?