続いて光 いくつもの

精読・『飼育する少年』③

私の中にはもう一人、子どもの私がいる。世の中を渡ってコミュニケーションができる今の私はいわば「渉外」係だ。誰もいない場所に小さくなってメソメソしている子どもの私が、きっとまだ本体だ。

そいつは「飼育する少年」の少年に近い。そいつの存在を認めて優しくなぐさめてやることが、休むのが苦手な私が強制的に自分を休ませるやり方かなと思った。最近少しアクティブで疲れる中で、そう思った。

 

精読①でも書いたけど、「飼育する少年」は三人称で書かれているのがすごく効果的だと思っている。一人称ではこの味わいにならない。

それが何故かと思っていて、今回は少年が見られているということが、味わいに繋がっているのだと思った。

 

「しゃわしゃわと、草を噛むおいしそうな音が頭上から聞こえる。少年は上を見上げることができない。怖いのだ。」

 

「僕は上を見上げることができない。怖い。」との違い。「怖いのだ。」は誰かが少年を見て判断している。暖かい目がある。その目は真の意味での暖かさを持つ。つまり無闇に助けてくれない。全てを少年に委ねて見守り、あなたは怖いのだ。と言っている。

真に母性的な目であり、神の目でもある。それはやはり作者・薄井ゆうじの目なのだろう。

 

子どもの私と「少年」がやっぱり近いなあと感じながら読みつつ、「飼育する少年」の文章は読み聞かせをしてもらっているような気分になる文章なのだと思った。

作者の声が聞こえてくる。作者は自分の作った世界を祝福する。とりわけ「飼育する少年」は薄井ゆうじに祝福されている。子どもの私と「少年」が重なることで、読者が作者に祝福されることになる。

 

「飼育する少年」は私小説ではないが、どことなく私小説なのではと思ってしまった。薄井ゆうじの亡き父親にむけた眼差しが『くじらの降る森』という作品になった。そして少年であった頃の自分にむけた眼差しが「飼育する少年」という形になっているのではないかと。

薄井ゆうじの小説は質にバラつきがある。それを決めているのは誰かに向けられた「眼差し」の有無ではないかと少し思う。

 

 

「飼育する少年」は1995年に書かれた小説らしく、実は私の産まれた年と同じ。そんなことどうでもいいかと言えばそうでもなくて、時代が重なることによる共感ってのがある。

 

「飼育する少年」は固定的・習慣的な世の中の価値観に対して、孤独でアーティスティックな少年が「本当はこうなのになあ…、誰も分かってくれないけど」って言っているようなふしがある。低成長期に入った90年代日本の雰囲気が「飼育する少年」には漂っている。

 

固定的・習慣的なものが減った気がする今でも、響く子どもがいるのか気になる。最近子どもと接する機会が多いが、私たち世代とどれくらい近くて遠いのかよく分からない。そのへんちょっと気にして過ごしたい。