続いて光 いくつもの

ゼーバルト『土星の環』

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薄井ゆうじは『くじらの降る森』で、父親の死を弔うとともに、消えゆく男性性を弔っているように思う。

「酔っていく頭のなかで、いまの自分の考えを取り消そうとしていた。彼女たちが枝豆をゆでるのを阻止する権利は、誰にもないのだと。

そして考えていた。こうして男は酔って、堕落していくのだと。」

 

ゼーバルトは廃れていくものに目を向ける。

フリースクールで去年仲良くしてくれた子が、毎週持ってきていた本のなかにドイツ文学案内があった。そこでゼーバルトは紹介されていた。前から気になっていた戦後の作家だった。弔いを行うとき、上段から切って落とすような態度を取ってはならない。弔うとは、理解しようとするとは、その場所のその精神に、入り込んでいくようなこと。ゼーバルトは写真を散文作品のなかに多用するが、動画があちらから語りかけてくるのに対して、写真はたしかにこちらから入り込んでいかなければ見えないものだったりする。

 

君は憂鬱なんですよ、と言われても、憂鬱だとは認めたくない。HSPですよとか、心理学的にこうですよとかも認めたくない。でもゼーバルトをある程度の共鳴を覚えて読み、その文章が憂鬱に浸されたものだと知るとき、自分は憂鬱なところがあるのだと納得できる。

私にとって自己理解のための唯一の腑に落ちる手段が小説や芸術の類いであり、唯一の腑に落ちた宗教でもある。

 

この世にとうとう慣れることができなかった人のために、小説はあるのだろうか?柴田元幸の解説から発想を得てしまうのがなぜか認めたくないのだが。

始めはたしかにそうだった。そして私はもう、この世に慣れたかもしれない。ふとそう思った。荒療治でこの世をふみ歩き、それで受けた傷が少しずつ元に戻っていき。それでもどこかで現実からまだ遊離している。でも思えば、もうこの世に慣れたのかもしれない。そう思った日のフリースクールのボランティアは、久しぶりにめちゃくちゃ楽しかった。そして4ヶ月ぶりに、偶然、ドイツ文学案内の本を持ってきていた子と玄関で再会した。