ジェーン・オースティン『高慢と偏見』
薄井ゆうじ氏に2作目の課題小説を提出して、講評が返ってきた。
1作目を出してから半年以上、書いては消してで上手くいかず。
数行書いては止めてを繰り返すうちに、なんとなくコレは膨らまして形に出来そうやなというものが見つかり、一応完成できた。
その辺の少しの苦労は読み取ってもらえたのかもしれない。
指摘されたことの一つは
「肩に力が入りすぎている。〜である。という語り口は小説を書き始めた人によく見られる傾向で、時代小説とかならともかく現代のことを書く小説なのだから、〜だ。〜だった。でいいと思う」
あ、確かに。
言われないと気付かないもんだな。
このブログでも〜である。という大仰な文章を書きたくなるときがある。
でもそれで内容が深まる訳じゃないしな。見た目がかっちりするだけで。
あとは
「肝心なところが隠されている印象がある。小説を書くというのは読者とのコミュニケーションであり、書いて書いて書き尽くす作業です。隠して隠して隠し尽くすことに意味はない。原稿の前では心を開いてください」
あー、確かにな、、、
薄井ゆうじ氏は、「伸び伸びと、楽しんで書いてください」とも言っていた。
小説を書き始めようと指南を受けたがるのは、人生に迷ってる人が多いかもしれん。
そういう人たちに向けて、小説の書き方であると同時に、人生の生き方としての助言を与えてくれている気になった。
私はどうやらとても繊細だから、
(岡田史子や薄井ゆうじ作品を読み返すと、そうだ私にはこういうものに深く共感する性質があるのだったと思う)
どうも自分の想いを良く理解してくれる人間はいないように見えると、小さいころから心を閉ざしていて
大学で辛いことがあってから、伸び伸びと過ごすことも苦手になっていたよう。
好きになった女の子がいたけれど、あの子にもあの子にも、心を開けなかったんだな。
あとは「付き合おう」って言って、実際に付き合うことを引き受ける段階で、自分の世界に閉じこもってしまった。
だからいまいち良い付き合いも出来たことがないのだった、、、
きっと自分の世界に閉じこもっていることにも理由があるのだろう。
どんな場所でも心を開いていると、傷付けられてどうしようもなかったんだろう。
でもケアをしつつ、もうちょっと心を開いて伸び伸びやっていきたいな。
そういえば友人がこのブログを読んでくれて「言いたいことが伝わり切らないようなところがある」って似たようなことを言ってたな。
その友人も他の友人から、心を開いてないって責められてたけれど。
心、開けるんかな。
出来ないと3作目が書けないのだけれど。
たしかになんだか、さみしいから小説書いてる訳よな。
自分を知って欲しいと思って書いてるのに、隠していては後悔するかな。
さて。笑
『pride and prejudice』1813年。
世界の名著として常に名が上がるイギリス小説で、たしかに現代にいたるまでの恋愛ストーリーの基本テンプレみたいなものがここで出来上がってるなと感じた。
対立関係にあるふたりの男がいて、主人公は片方を好きになるんだけど、もう片方の男は鼻持ちならない。
あんな男、好きになるもんですか!みたいに言っといて、ちゃんとその男と結ばれてゆくストーリーは「花より男子」みたい。
主人公の家系が男たちよりも平民というのも「花より男子」と同じだけど、やっぱその描き方の深さは違うかもしれない。
主人公の両親と妹たちの性格が見事に書き分けられて、それぞれに愚かさを示し、居た堪れなくなる。
身内の愚かさゆえに主人公の縁談も危うくなるのだけど、その辺りは読んでいて本当に腹が立ってくるからすごい。
prideとprejudiceがあちこちに散りばめられて、自分たち自身のそれに気付いて、成長していくことで話が進む。
10人以上の人物が現れてはストーリーを押し進め、過不足なく動いて、全員が収まるところに収まってゆく。
これはバルザック『ゴリオ爺さん』にも感じたことで、こういうダイナミックな構成というか、たくさんの人物が有機的に連動してストーリーを盛り上げ、収束していく。
この「劇」としての巧さは、日本の小説には見られない。
日本の小説は「わたしはわたしは」って言って内面の告白に終始することが多いし。
そこらの恋愛物よりは、情報量が多くて、読んでてしんどい時もある。
でも読み終わってみるとさすがに面白かった。
そこらの恋愛物のように、楽しんだあとは内容をほとんど忘れるということがない。
「探偵小説に匹敵する論理的構成」とまで評されているその構成が、読むのに自分なりにかけた時間と労力の分くらいに、頭の中に残っている。
次は何を読もうかな。