『古事記』と『旧約聖書』
これらは似ている。今『古事記』を読んでいて、こないだ『旧約聖書』の創世記を読んだのだが。
子孫がどんどん増えていって、誰々は〇〇という地方の人々の祖先になった、みたいな描写が多い。
つまり当時の人間としては、自分はこういう系譜で生まれたんだなとか、だからこういう身分なんだなとか分かる(それが事実であるかはともかく、信じることができる)。
この出来事があったのは現在の〇〇である、みたいな描写も多い。
家の近くの遺跡はこういう由来があるのか、あの山では昔こんなことがあったのか、みたいな楽しみは古代人に共通していたのだろうか。
どちらも世界の創造から始まっているのは、「そもそもこの世界って何?」というのが原初的な疑問として共通していたからだろうか。
この世の辛いこと悲しいことの原因を述べる箇所も多い。
『旧約聖書』の楽園追放とか、『古事記』だとイザナミが呪いで毎日1000人死なせて、対抗してイザナギが毎日1500人産まれるようにして、だから人には生と死があるのだとか。
似ていない部分としては、『旧約聖書』の方が上品かなというイメージがある。
『古事記』はいきなり男性器と女性器の話から始まり、大便や嘔吐から神さまが生まれたり、尻から穀物が生まれたりする。
恐ろしい蛇の倒し方が酒を飲ませて眠ったところを倒すとか、天照大神が引きこもったから外で皆んなで大笑いしてたら気になって出てきたところを捕まえて「もう引きこもったらあかんで」とか、間抜けというか、ギャグっぽい面白さがある。
『旧約聖書』を正統とするような欧米人にとって、日本は辺鄙な場所にある、変態的な国、というイメージは何となくその通りなのかも。
すでに「正統」の側に立っている私たちにとって、東南アジアとかの文化が少し変わった、面白く神秘的なものに見えるのと同じように。