続いて光 いくつもの

中上健次『枯木灘』

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薄井ゆうじへの課題小説3作目を送り、講評が返ってきた。

 

以前指摘されたことは、再度指摘はされなかった。

でもとても分かりにくい小説になってしまっていたっぽい。

少し自覚はしていたし、指摘されて尚更、あーそうだなとなった。

 

前回指摘された「原稿用紙の前では心を開いてください」にプラスして、「書きたいことをひとつに絞る」ことにして次は書こうと思う。

 

書きたいことを一応決めて書き始めるけど、その一点を深めていくのは途中からしんどくなる。

そこで気を逸らして、別のこととか継ぎ足すように書いていくと、楽だからやっちゃうんよな、たぶん。

 

とはいえ前回までは、こりゃどう考えても人には見せられへんな、やったのが、今回はそれっぽい形にはなってきたなという感じがした。

小説を人生の優先事項にするよりは、その分アタマの余裕を取っておいて、人当たりの良さなんかに使いたいなとも思ってるんやけども。

 

 

 

 

 

ここ3週間くらいはずっと『枯木灘』に支配されてた。

読み始めると、一文一文が簡潔で、思ってたより読みやすいなとなった。

でも途中からはしんどくもあった。文章は簡潔だから、やはり内容の濃さだろう。

 

 

「路地」と名づけられた土地の、血族の話。

 

5人兄弟と、それらの家族、再婚した家族、とか出てきて訳分からんかったから、家系図をノートに書いた。

ページを横向きにして、横長にしないと家系図が収まらなかった。それくらい兄弟とか横の広がりが大きい。

木の枝が上にではなく、横に横に伸びて広がっている、というような暗喩が出てくる。

 

 

この小説には、無の瞬間がある。

 

血縁にがんじがらめにされて、土方仕事をしているとそれを忘れられる。

長々と改行なしの文章に挟まれて突然、蝉の声がした。みたいな一文がぽつんと改行して置かれて、なんだかそこで小説の中の時間やらが止まってしまう感じがする。

この小説は無から出発している、という感じがする。何度も無に戻っては、また無から出発する。

 

 

描写が始めから終わりまで、同じことが反復される。

何度も同じ描写を読まされるけど、そこに濃厚な読書体験が立ち現れてくる。

 

主人公は秋幸という人間だが、「秋幸は草木だった」「山は秋幸だった」みたいな描写すらある。

「秋幸は郁男だった」とか「郁男は秋幸ではない」みたいな描写もある。

 

とにかく色んなものが重なり合う。

自然のものと重なり合うし、別の人物と重なり合う。

 

このへんは仏教的な世界だった。

鈴木大拙が『日本的霊性』で描いていた世界を感じた。

 

 

秋幸が妹を犯したと告白すると、父親は「しょうないことじゃ」と笑う。

白痴の子を犯しても、兄弟を殺しても、再婚をしてそれまでの子どもを放ったらかしにしても、繁華街に火をつけても、自分の血族以外を除け者扱いにしても、しょうがない世界?がここにある。

令和の価値観だけでは理解できない世界。

 

どんなことが起こっても、この小説世界はなんだか凪いでいて、静かな感じがする。

不思議とすべての登場人物たちに愛着がわいて、わりと好きになる。

 

 

お盆で親戚が集まってくる場面とか、お祭りの日が日常とちがう特別な日になっていることとか、なんだか懐かしい気持ちがした。

こういう土着的な郷愁を、これから生まれてくる子どもたちはどれくらい感じるのだろう。

 

 

徹底したリアリズム小説であり、ファンタジー的なワクワクドキドキするみたいな展開は皆無といっていい。

たぶん、小説をそこそこ読み慣れたメンタリティでないと、最後まで通読できない。