続いて光 いくつもの

村上春樹『納屋を焼く』

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英語だとburn the barnである。村上春樹はそこまで好きでないが、この作品は好きだ。

大学時代に家庭教師してた子に勧めたら気に入ってくれた。英語だとburn the barnになるというのはその子が発見してくれた。

 

5年ほど小説を読んできて(たかが5年だが)、一流の「作品」たりえている小説とそうでないものの区別が付いてきた。

たかが文章のみで成り立っている小説は、よほどの練度で書かれないと、「作品」と呼ぶに値する存在感は立ち上がってこない。

その点でいくと、村上春樹はやはり一流の「作品」としての文章を書ける。この点は間違いない。

 

それがはっきり分かるのが『納屋を焼く』である。

日本語を書ける人なら誰でも、『納屋を焼く』を書ける可能性はある訳である。もちろん私にも。なのに、この文章は書けない。

どこからこのような文章が生まれてくるのかと、小説は参入ハードルが低いからこそ、怖いくらいである。

 

冒頭3ページの意味が分かるだろうか?長いので引用はしないが。

「たぶんもっと、ずっと単純なことなのだ。」とは、「彼女」の性質を表している。彼女は特に何も考えていないのである。彼女の言動に大した意味なんてない、単純なことなのだ。

コミュニケーションは、双方向的に成り立っている。ところが、こちらが働きかけても、彼女からは意味のある事柄が返ってこないのだ。こちらとしては不安である。「暖簾に腕押し」。

 

「暖簾に腕押し」状態に陥ると、人間は、そこに何とか意味を作り出そうとする。

(現代という時代はコレである。戦争とか敵がいなくなり、科学の進歩も行き詰まって、何のために生きるのかよく分からない。)

「彼女」に触れた男たちは、その意味の空白を埋めようと、彼女は自分に好意を抱いているはずだとか、自分は彼女を愛しているはずだとか、自分は彼女を追うことをあきらめようと思うとか、分かりやすい感情を作り上げる。

 

しかしそうした感情は「蜜柑むき」と同じように、錯覚に過ぎないのである。ある特定の場所・時期にのみ燃え上がり、やがては消えてゆく恋愛感情のようなものである。

 

特にこの冒頭3ページ辺りは、ぜひ読んでみて欲しい。凄みを感じさせる、他にはない文章である。