薄井ゆうじ「夜の遮断機」
『十四歳漂流』という短編集の最初が「飼育する少年」、2番目が「夜の遮断機」だ。
どちらも20ページほどの短編だが、薄井ゆうじの最も優れた作品と思う。
「夜の遮断機」はいつかこんな小説を書いてみたいと思わせる作品だ(そう思わせられるということは、「書けそう」に見えるのに絶対に書けないという、技巧的な作品であるということだろう)。
アルバイトで発達特性のある中高生に勉強を教えたりしている。
それで学習支援などの本を最近は読んでいた。
高橋和巳『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』にはたくさんのことが書いてあった。
私自身の幸せのために感じたことは、
・ただ「在る」自分(生命的な自分)と、社会的な自分。その両立。自分なりのバランスをとる。
・人と人は完全には通じ合えないということを受け入れて、ゆったりと自分を保って生きる。安心して、人とつながれていたら幸せ。ほどよい我慢と緊張が、愛情で報われるのを感じる。その愛情は「完全」ではなくとも、たしかに存在する。
現実に適用するなら、ほどよく仕事をする(「愛がない」ということを忘れるために激務で働くことがあろう)。
その仕事はある程度あるがままの自分でやれるものがいい。
仕事はたまに面倒なときもあるが、仲良い社員さんと話をして笑っていたことが何だかよかったなと思う。
その本を読んでいて、ふと「飼育する少年」を想起する箇所があった。
その後では「夜の遮断機」を思い出す箇所があった。
これによって、薄井ゆうじの2つの短編に共通して流れているものを感じる。
「飼育する少年」は、社会的存在(周りと比べて背が低い、いじめられる、誰もわかってくれない)から「僕は僕なんだ」という生命的存在へ移行する。
子どもは最初、親や先生の教える世界しか知らずにいる。
生命的存在もまた正しい存在のあり方だと知る。それにより星がいつもと違って見える。(キリンの「美しさ」も関係しているよう。)
「夜の遮断機」の少年は、規範の中にいる。少年が暮らす寮のような建物は、大人に与えられた世界、規範の世界を表している。
父に触れ、意識が途切れる。
生命的存在となった少年はそばに居る加藤さんを「ただ感じている」だけだ。
そして、いつか遮断機が上がったら、また走り出そうと思うのだ。と決意して終わる。
これは生命的かつ社会的な存在への、次なる成長を期待している(大人に与えられた世界から離れた上で、今度は自ら社会に対して働きかける。それが少年に与えられた次の課題である、ということ。)。
この最後の決意は、「飼育する少年」には明記されていない気がする。
つまり「飼育する少年」は大人たちの世界とか規範とか子どもたちの世界とか、そういう「社会」一般からの自立、「ぼくはぼくなんだ」という所で終了している気がする。
私自身は、おそらく「社会」というものが苦手だった。
誰だって演技をしているかもしれない。でも私は受け入れられなかった。
「ぼくはぼくだ」という考えに思い至ってから、その考えにしばらく固執したのだと思う。その考えを描いて終わる「飼育する少年」に、小学生の私は共鳴したのだろう。
「僕は僕なんだ」ということが分かっていれば世界は十分に美しく見える。
その上で社会的存在を目指し続ける私だが、それでもいつまでも「飼育する少年」が心に留まり続けるのだろうか。
最後に、『消えたい』のあとがきから。
結局、他人と現実を共有できなかったことが、僕の苦しみだった、同じ言葉を使いながら違う現実を体験しているという孤独感だった。
追記
結局いちばん身につまされたのは
社会的にふるまうこと、規範を守ることは、「義務感」のためではなく、他者と感情を共有するため、愛情を受け取るためなんだ。
ということかも。