続いて光 いくつもの

フィツジェラルド『グレート・ギャツビー』

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戦間期の小説という感じ

・文章が上手い、人物は軽い

・フィツジェラルドが「良い」と思ったものは何か?

 

 

戦間期の小説という感じ

 

ずっと夜の場面ばかりなこの小説。上級国民たちの豪華絢爛なパーティを描いた作品でありながら、登場人物たちには暗い影がさしている。

 

トム・ブキャナンという元アメフト選手の屈強な男が、いつの間にかカルトに傾倒している。アメフトのスター選手から退いて、上がって落ちる時期。ファシズム(ナチスヒトラーとか)が台頭した戦間期。その雰囲気を先取りしているようにすら感じる。

カルトへの傾倒は、日本の1990年代とかもそうだ。上がって落ちる時期。今もコロナ禍で、カルト台頭の気配が少しある。

 

ジェイ・ギャツビーは戦前に将来を約束する女性がいた。それが戦争から帰ってみると別の男と結婚していた。戦争から帰ると夢が終わっていた、という構図は当時の人々、欧米全体と共通しているだろう。それまでは科学文明がどこまでも明るい未来を開くと夢見ていた。

 

 

②文章が上手い、人物は軽い

 

フィツジェラルドはとにかく文章が上手い。『グレート・ギャツビー』や『金持ちの御曹司』のエッセイ風の文章から始まるあたりとか。けど『グレート・ギャツビー』に人物の内面を深掘りするような直接的描写は少ない。

 

「エクルバーグ博士の両目」に見られている人物たちは、どこか演技しているように立ち振る舞う。小説でありながら、人工の舞台がうっすら見えるような、演劇的な作品のように感じた。

 

「間断なく演じ続けられた一連の演技の総体」として、ジェイ・ギャツビーのみならず、トム・ブキャナンを、デイジーを、ジョーダン・ベイカーをそれぞれ演じている感じが少しある。

語り手のニック・キャラウェイがいちばん人間らしい気がする。

 

 

③フィツジェラルドが「良い」と思ったものは何か?

 

最初は、ひとつの光の点を追うような純粋な夢を、良いと言っているのかなと思った。あるいは希望を見出す態度とか。それなら薄井ゆうじ「飼育する少年」と通じているなと(薄井ゆうじはアメリカ文学の影響を受けている、はず)。

 

しかしだんだん分からなくなった。ギャツビーは本当にグレートなのか?も分からなくなった。

 

フィツジェラルドはアメリカ中西部で育った。冬が長い田舎で、それゆえ東部のニューヨークの摩天楼に抱いた夢は強烈だったと言われてる。

フィツジェラルドは実際に夢を叶えたかに見えた。小説家として大成し、妻とのめちゃくちゃな遊び方がゴシップの的だったらしい。やがて破綻してしまった。

 

フィツジェラルドが「良い」と思ったものは何だったかと言えば、本当は「アメリカ東部の夢ある世界」と答えたかったのかな。でもそこは「歪んで」いて「不注意」なろくでもない世界でもあると身に染みて知ってしまった。

 

もしもそこにギャツビーのような人物がいればと思ったかもしれない。本当はギャツビーのような人々がアメリカ東部を作ったのだと。あるいはギャツビーも中西部から来た人物なので、フィツジェラルド自身を投影していたのかもしれない。東部はむちゃくちゃだったけど、俺の抱いた夢は、俺の東部への挑戦は偉大なものであったと。

 

いずれにせよ『グレート・ギャツビー』は東部と中西部というアメリカ内でのふたつの世界の話に過ぎないのかもしれない。

先住民を殺して作ったアメリカというものについて、第一次世界大戦に帰結してしまった近代科学・資本主義・帝国主義について、それが「良い」のかどうかはあまり考えていなかったのではないかと、思ってしまった。

 

つまり私は何が言いたいんだろう。フィツジェラルドが「良い」と主張したかったのは夢とか希望とかアメリカとか近代とかそういうのかと思いきや、もっと個人的な想いというかフィツジェラルド自身のプライベートなことだったのかもと思った。

グレート・ギャツビー』は文章が圧倒的に上手くて、面白くて、得体が知れなくて、私はなぜか3回も読み返してる。でも実はけっこうプライベートな、範囲としては小さい小説なのかな。だから読み返したくなるのかな。私はまだまだ社会よりも個人、「私」について書かれた小説の方が好きだから。