続いて光 いくつもの

小池桂一『ヘヴンズドア』

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このマンガ短編集を強くお勧めしたい。

もっとも私はここ数年毎日のように小説や本を読んでいて、おそらく「物語脳」みたいな、本を読むのに少し特化した状態になっていると思うので、そうでない人たちがこれを読んでどう思うかは分からないのだが、、

 

小池桂一というのは、ヒッピー文化における薬物とか幻覚剤による意識の拡張を扱った、日本では唯一の作家、ということになってるらしい。よく知らないのだが、確かに薬物を使った人の見る光景をマンガとして表現しようとしていて、その部分だけでも読んでいて面白かったりするのだ。

 

実はこれを書いている時点で、まだこの短編集の途中までしか読んでいない。でも「母をたずねて三千里」(かの有名なアニメとは別物)と「ラザロ・フランコの午前四時」が良すぎたのでもう書いていいか、と思っている。

 

母をたずねて三千里」は故障したロボットが見た夢?が描かれている。私たちには、記憶の遠いどこかで見たような風景、というものがある。「千と千尋の神隠し」の水辺を電車が走っていく場面など、日本人の多くが、なぜか懐かしいような気持ちになるようだ。

ロボットにこうした原風景のようなものがあるとしたら、どうだろう。AIが人間の知能に近づき、初めて意識が生まれたとき、見る光景はここに描かれているようなものかもしれない。

ちなみに私の精神がかなり参っていた頃、不思議なほど記憶に残る夢を見たのだが、それが嵐と雷の夢と、大雨の降る島で女の子と抱き合っている夢だった。それがこの作品に描かれる光景とどこか似ていて、それもあってか勝手に、この作品には一つの原風景が描かれている、と思えてならない。

 

「ラザロ・フランコの午前四時」では薬物によって起こる出来事が描かれていて、こっちの方が直接的な小池桂一らしさなのかもしれない。この作品に関しては、、ちょっと書けない。作品の持つパワーゆえの危うさがあった。別に「自分も薬物やってるみたいな気分になって、なんか危険」とかそんなことを言っているのではない。私は小池桂一の凄さは、薬物とか幻覚剤使用時の光景とかではないと思っている。それはあくまで道具であり、それを使って、小池桂一は人間という存在の心を、かなりの奥深くまで暴き出しているように見える。それが凄さであり、危うさである。

 

それを可能にしているのが、丁寧な作品の作りである。余りにも丁寧に作られているのが分かるし、こんなマンガは他に見たことがない。全体として妥協が一切見えないし、1コマ1コマの描き込みも半端ではない。

小池桂一は幻の作家と帯に書かれていたりして、長編『ウルトラヘヴン』は4年に一冊の連載ペースだった挙句、3巻で休止状態?になっている。でもそれが、なんとなく分かる。良く言えば、本当に妥協をしないのだと思う。でないとこの『ヘヴンズドア』の作品たちは絶対に生まれなかった。

 

私は『ウルトラヘヴン』より短編集『ヘヴンズドア』の方が好きだ。忙しい人生においてそんなに沢山の作品を読めるわけでもないだろうし、折角なら、その人のすべてが凝縮されたような、濃く丁寧な一冊を読んでみてはどうだろう。垂れ流すように本を書いているベストセラー作家にハマって、山ほどある作品を楽しんでいるのも、まあそれはそれで良いんだけども。

 

 

 

 

 

 

 

 

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