村上春樹『風の歌を聴け』
喪失と再生の話(らしい)。1979年の村上春樹のデビュー作。
親友の鼠は実はもう死んでいて、ジェイズバーはこちらとあちらの世界を繋ぐ場所であるとか何とか。他の人のブログで興味が湧いて、再読してみた。
まあその件は良く理解できなかった。
ただこの小説はかなりの切実さを持って語られていると思った。
これはとても悲しい小説なのだが、その仕組みを少し説明してみる。
序盤で
この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る。
とある。
後半で
1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。(中略)そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた。
とある。
「彼女の死」について、作中ではあまり述べられていない。本当はそのことを長々と書きたかったかもしれない。しかしそれでは小説として陳腐になると考えたのだろう。
「彼女の死」は、1970年の4月なのだ。そしてこの小説は1970年の8月の話だ。
実は、54回もセックスをした?彼女を亡くして間もない男が主人公の小説なのである。
そう分かると、酔い潰れた女性を家に送って、発作を起こして死ぬかもしれないから朝まで見守る主人公の姿や、
その女性を愛していると思えない姿(まだ死んだ彼女を愛しているはず)、
女性と悲しさを分け合って励まし合う姿、
が意味を帯びてくる。
丁寧に読まないとこの事に気付かない。私はだいぶ前初めて読んだとき、なんか変わった小説やなとしか思わなかった。
村上春樹は実際に、親友や恋人を亡くしたのではないか。悲しみを共有した異性が実際にいたのか、そうした異性を物語の中に創造することで自己療養を試みたのかは分からないが。
と想像してしまう。
そういう切実さ。
関係ないけど宇多田ヒカルの歌う姿にかなりの切実さを感じる。というかプロフェッショナルなのか。中森明菜も少し感じる。
まあこういうものは、平和な幸せから離れたものかもしれないし、切実さが減った世の中の方がいいのかもしれない。
でも私は好きだ。
東浩紀が、ハルキは世界中どこでも読まれる。社会が一定の成熟をするとハルキが読まれるようになる。
と言っていた。
現代社会は変化が早いし、そもそも多くの物を失って成り立ってる。そこに村上春樹の悲しさ・喪失感がマッチするというのは、安直だけど感覚的に正しい気もする。
「上手い文章」みたいのが好きじゃない気がする。
下手でもいいから切実な思いに触れたい。
物語というよりも、作者自身に興味があるのかもしれない。
同じようなことを思う人が多いから、Twitter発信の本とか実体験に基づいた本が売れてるのかな。
まあ私は最近のこういう本だいたい興味ないけど。
追記。
村上春樹が現実で亡くしたのは青春そのものかもしれない。とふと思った。
最近青春が終わっていくようでしんどい。それを村上春樹の感受性はここまでの悲しい話に作り変えたのかもしれない。