続いて光 いくつもの

宮脇俊文『『グレート・ギャツビー』の世界 ダークブルーの夢』

を読んでから「夢」というよくわからないものによく思い当たる。

 

 

幸せとは最上の瞬間のことではないのだ、と昨日私は気づいた。

 

 

 

安岡章太郎『ガラスの靴』についての村上春樹の文章。

主人公は現実から逃げたがっている。主人公が強烈に惹かれている悦子という人は、現実の世界から少しずれている。

(1)「ぼく」は現実を離れた悦子に惹かれ、彼女を追いかけている。追いかけないわけにはいかない。

(2)しかし「ぼく」が悦子に追いついてしまえば、「ぼく」は彼女を現実化してしまうことになる。現実化された悦子は、「ぼく」の求める悦子ではない。

(3)しかし「ぼく」がひとたび悦子を追いかけるのをやめたら、今度は現実が単純に「ぼく」に追いついてしまう。

 

 

今ある現実から逃れたい、という夢。

あるいは現実の次のステップを踏み出したくない、という夢もある。

 

本当は七海をこの手で抱きしめてあげられればいいのだが、僕のなかの何かがそれをためらっていた。たぶん僕は、いまのままの『秩序』を破壊したくないのだ。彼女にこれ以上触れれば、秩序は崩壊する。それを僕は恐れている。手に入れようとして崩壊させるより、混沌のまま見守っていたいのだ。

これは薄井ゆうじ『星の感触』より。

 

 

薄井ゆうじという作家は、少年の心を持ち続けた。

その『秩序』が、彼に小説を書く力を与えている。

何かを手にすることで秩序を失うことを、登場人物たちは強く恐れている。(それでいて踏み出す一歩には大きな意味がある)。

 

 

 

 

ずっと夢をみていたい。それは可能なのか?いつ終わるのだろう。

フィツジェラルドは早く死んでしまった。安岡章太郎はその後どうなったのだろう。ほかの作品を読めていない。

 

 

 

 

 

 

 

宮脇俊文『『グレート・ギャツビー』の世界 ダークブルーの夢』リンク

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』リンク

薄井ゆうじ『星の感触』リンク