続いて光 いくつもの

河井寛次郎「部落の総体」

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何も知らずにこんな美しい村に住まっているという事自体、これ以上に素晴らしい事はない筈だから。

 

美しい物に隠れている背後のものを求めて。

河井寛次郎が感銘を受けた、「個々の集りが全体だという感じよりは、全体があって個々だという方の思いが先に立つような村」、それは京都府相楽郡の植田という場所だと言う。

 

去年、会社がこの辺りでびっくりした。

当時とは変わってしまっているが、精華町という場所を私もとても好きだった。

 

自分で気付いていないから美しいのだ、という考えによく思い当たる。

関係ないようだが宇多田ヒカル「beautiful world」に次の歌詞がある。

Beautiful boy

自分の美しさ まだ知らないの

ほんとは全部引用したい。

 

自分の高校の日記が好きなのだが、昨日も読んでしまった。

若さと勢いに憧れているのだろう。

あの頃の私も、若さという美しさに気付いていなかった。

 

 

 

 

 

とは言えまだまだ夢を見るエネルギーはある。

 

とても不安定で一時的なものだ。

気付いてしまったら、もうその美しさは無くなるのだから。私の最も美しくみえた女性はそういえば、そうした性質を持っていた。

 

全体というものに結構惹かれる。

「全体があって個々だという方の思いが先に立つような」ものへの憧れが今もきっとある。

 

河井寛次郎記念館というのがある。

実際に住んでいた家がそのまま残っているらしい。この家はイマの人間には作れない。

イマの人間には作れないという直感を、私は河井寛次郎の作品(家、陶芸)と、タイはプーケットの小さな道教寺院の化け物の人形に感じたことがある。

たぶん大袈裟じゃないんだと思うけど。

 

 

穀物や野菜は育てる事は出来るけれども、作る事は出来ない。作る仕事はごまかすことも出来るが、育てる仕事にはそれは出来ない。農家が、農家の暮しが美しくならないはずがない。

 

どれもこれも土地の上に建ったというよりは、土地の中から生え上ったと言いたい。

 

 

 

太宰治の「水仙」とか思い出したなー。

 

 

 

 

 

 

 

 

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