続いて光 いくつもの

国木田独歩「忘れえぬ人々」

f:id:kokumura01:20200323194335j:image

 

旅人宿に、二人の青年が泊まっている。彼らは意気投合し、やがて、僕にはどうしても忘れられない人々がいる、と話し始める。

 

①美しい日本語について

すごくリズムの美しい日本語で書かれているなあ、って思う。国木田独歩は詩も書いていたから、それもあるのかも。

でも。この小説が書かれたのは1898年らしい。美しい日本語、って漠然と考えたとき、思い浮かぶのって夏目漱石とか、この小説とか、どれも古いよなあ。

現代に生まれているから知らないけど、日本的な良いものはたくさん消えているんやろうな。まあ新しい良いものも、生まれてるんやけどさ。

 


②個人的な思い出

こないだ愛媛に旅行して、いろいろハプニングもあって、旅行客が行きそうにない田舎の焼き鳥屋さんに行くことになった。

そこで感じたことが、この『忘れえぬ人々』を思い出させた。

あの焼き鳥屋さんの、地元の常連客の人たちの、雰囲気はとても良かったなあ。部外者の私たちのことは気にせずに、きっと普段の、その地方の人々の日常を覗かせてくれた。

私の友人はその光景について、「なりたいと思ってなるものでは無い」と言っていて、本当にその通りだなと思った。だからこそあの人たちは自然で、美しく見えたのだ。

「なりたいと思ってなるものでは無い」としたら、そうなりたいと思う人はどうしたらいいんやろな。もう既に取り返しのつかない差異をつけられてしまっているのかな。

 

忘れえぬ人々』では、人としてあるべき日常の姿に憧れつつも、立身出世を夢見て自我にこだわる無名芸術家が描かれている。

でも自我にこだわるというのは、立身出世を夢見る野心家だけに起こる現象ではない。

世の中の可笑しさによく気がつき、心に溜め続けてしまった人や、過去の辛い記憶を清算せずに心に持ち続けている人、そういう人たちも自己の内側のなにかを飼い太らせて、あるべき自然から離されていってしまう。

忘れえぬ人々』に書かれていたのは、本当はもっと大きく捉えられる主題なのだろう。色んな本を読み重ねて、現実も疎かにせずに、色んなことを理解していきたい。

 

 

 

2020.10.14

私は自分にとっての「あるべき自然」を失った状態にある。生まれ育った価値観を抜け出したくて慣れない環境へ入り、結局どっちにも戻れない中途半端な自己になった。そういう心境をこの小説の読書に投影したのだろう。

私は実は、浅い、簡単な問題を、深刻に考えようとするだけの人間ではないか。ふとそんなことを思った。そういう陰気な愉しみなのであろうか?

 

 

 

 

 

 

Amazonへのリンクはこちら