精読・『飼育する少年』④
一年半ほど、『飼育する少年』を中心にして物事を考えてきたところがある。
突然だけど、私の中の『飼育する少年』にいったんの結論が出た気がした。それは
私たちが生きてきた大衆社会において、少年が自分の人生に目覚める
物語なのだということだ。
内山節の著作集を読みつづけて、どのように中世が近代に繋がり、日本の戦後に繋がり、現代に繋がるかを教わっていった。その中で戦後日本の大衆社会の特徴を知るとともに、『飼育する少年』に巧みに描かれていた大衆社会に気づいた。
・みんな「一律の」運動をさせる先生
・テレビを見ながらめんどくさそうに答える父親
・単純で、少年の言うことを本当には聞いていない母親
・少年は塾に通っている
・家族は団地に住んでいる
小説は精密機械のように、すべての道具立てがある目的に向かって用意されていると、聞いてはいた。それを初めて、実感した気がする。『飼育する少年』は驚くほどに、すべての舞台・小道具・台詞が、私たちの生きてきた90年代あたりの大衆社会を描きだしている。
そこに描かれている舞台が、まさしく私のずっとおかしいと感じていた社会と人間だった。私と同じように抑圧され、おかしいと感じている少年がいた。そして少年は、抑圧から自由になり、自分自身の人生に目覚める。私は共感し、憧れたのだった。
ここ一年半での思想上の遍歴は、実際に色んな形で私の現実を変えた。
・会社を辞めて
・未経験だった教育・福祉の活動をつづけ
・新しい人間関係をつくり
・異性関係が進展した
薄井ゆうじ『飼育する少年』に始まり、薄井ゆうじに小説を見てもらうことで助言をもらい、内山節著作集で終わる。
主体的になどなりたくなくて、次の場所になど行きたくなくて、うだうだする。うだうだしながら考えて、その考えは結論に向かう一方で、結論を出さないためにわざと拗らせることもある。結論なんて大事ではない場合もあるからだ。でも今の私には、ひとつ結論が必要であった。だから、「少年が自分の人生に目覚める」ということを結論にすることにする。
内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』
この人の本、だいぶ面白い。私が思っていたけど言葉に出来なかったことを書いてくれていて、ああそういうことだよなってなる。
他の著作も読んでいる最中なのだけど、取り急ぎ書いてみた。
私がずっと考えてきたことの一つは、自然に戻りたいということだったよう。それは森とか川の自然というよりは、私にとっての自然。自然体の、あるがままの私に戻りたいということ。
向上心とも自傷行為とも取れるようなエネルギーで、あるがままの私を離れた大学時代。そこから帰ってきたと思ったけど、まだ帰りきらない所もあったみたい。
土着的な信仰のある世界に、私は生まれたのだと思う。京都の中心地で、「ご先祖さま」みたいな考えが比較的濃い家庭に生まれた。
時勢の問題もあり、私個人の問題もあり、そこから離れてきた。だから、土着的な信仰の世界が恋しいのだと思う。
私にとってのあるがままが、生まれた場所とは限らない。その場所から離れて、でもその場所に足をつけて。別の場所にも私にとっての「土着」を見いだして。私が最もあるがままでいられる時間・空間のバランスを取っていく。
いったん、だんだんそれは叶いつつある。仕事や生活の面では最近バランスが良い。これからも調節しながら、ちょうど良く変化させていきたい。
本来の日本人の暮らしがどうであり、近代化でどう変わったか。そのギャップがどのように顕在化し、私たちの生きづらさ、何かがおかしいというズレの感覚に繋がっているか。それを分かりやすく論じる内山節の本を、もう少し腑に落ちるまで読んでいく。
たぶん私は、古い共同体の感覚を根強く持っている。現代の社会への根本的な不信感がある。それを元にこれからの人々の暮らしも考えたい。
山田詠美『晩年の子供』
すごく面白い本だった。すべての短編がどこかで繋がっていて、ひとつの世界観になっている。
一番感じたのは、著者のすべてを見透かしたような、物悲しくて空恐ろしい、恋と人生に対する眼差し・洞察だった。
「花火」での、清らかな恋とか言ってるものこそ肉欲で、身体の関係に飽きてしまったあとの思いやりこそが本当の愛だ、といった言葉が重みがあって、すごい説得力だった。
シンプルな読みやすい文章で、こうして味わい深いものが書けるのは稀有だと思った。
少し宗教的でもあった。
「晩年の子供」では、世界はひとつなんだ、といった感覚がある。「ひよこの眼」には時間を超越する諦観がある。
道ばたにある小石をすら愛し、この世のすべてのことを許す。
小川国夫「相良油田」の一節を思い出す。
「苦しまぎれに彼の気持は、脈絡を失ってさまよい出て行ったのだろうか、いつもなら、そういうものとしてしか見ない、おびただしい数の石ころが、なにか途方もない間違いとして眼に映った。」
そのとき、死者も同じ世界のいわば仲間みたいになる。それが宮内勝典『南風』にあった世界観。
そして『南風』で述べたように、それは薄井ゆうじ「飼育する少年」の世界に繋がりつつある。
宮内勝典『南風』
「あの戦後の貧しい一時期、この土地の空間はただ均質にひろがっているのではなく、嶽山を中心にして一つの同心円をえがいていたような気がする。その円のなかで人々が暮し、きちがい豊がどこかをひた走り、女郎たちが化粧の仕上げを急いでいた。そして本坊さんという一人の行者が、その要で、静かに世界を担っていると感じられることもあった……。」
著者は、自分の見ている世界と母の見ている世界、友だちの見ている世界は違うもので、自分が帰ってくるタイミングでいつもの家や母が現れているだけなのではと感じる。
それを暴くために学校を早退するも、彼の帰宅を予知したかのように、家はいつもと同じように存在して、シラを切り通している。
そんないくつもの世界を通り抜けていく唯一の存在に見えたのが、きちがい豊と呼ばれるおじさんだった。
夕方になると決まって全裸で街を走る。何か決まった規則に命じられているように、さまざまなルートで。
少し違うけれど、今日、駅の構内にカラスが入って暴れていて、通行人たちの注目の的になっていた。
仕事帰りの大きな交差点では変なパフォーマーや、音楽を奏でている人たちがよくいる。
そうした、いつのまにか陰から空間を支えてくれているような人たちは良いなあと思った。
現代とは違った生命観をもって人々が暮らしていた土着の風土、それを描いた小説に惹かれる。
私は、現代の機械的な世界が嫌いだったのかもしれない。
自然があり、神がいて、人がいた日本の社会。
実は「飼育する少年」においても、少年は機械的な世界からこうした社会への気づきを得ているように見えてきている。
宮内勝典は命懸けで小説を書く人で、『グリニッジの光を離れて』もよかった。
お気に入りの作家になった。
2022/05/29追記
データ分析とか合理主義っぽいものが好きじゃない。そうした詰まらないものが、「熱帯の海から黒潮に乗ってくる魚の大群も、もう母なる海の恵みではなく、いまではただ鰹節の原料にすぎなかった。」こういう世界を作った。私は、魚の大群が母なる海の恵みであり、「火口壁の向こうで静かに世界を担っていると思えた行者」がいる世界に生きてみたかった。そこには「爆ぜるような燃焼」があり、とてつもない苦しみや呪詛があり、私はすぐに、現代の世界に憧れてしまうかもしれないけれど。
薄井ゆうじ「夜の遮断機」
『十四歳漂流』という短編集の最初が「飼育する少年」、2番目が「夜の遮断機」だ。
どちらも20ページほどの短編だが、薄井ゆうじの最も優れた作品と思う。
「夜の遮断機」はいつかこんな小説を書いてみたいと思わせる作品だ(そう思わせられるということは、「書けそう」に見えるのに絶対に書けないという、技巧的な作品であるということだろう)。
アルバイトで発達特性のある中高生に勉強を教えたりしている。
それで学習支援などの本を最近は読んでいた。
高橋和巳『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』にはたくさんのことが書いてあった。
私自身の幸せのために感じたことは、
・ただ「在る」自分(生命的な自分)と、社会的な自分。その両立。自分なりのバランスをとる。
・人と人は完全には通じ合えないということを受け入れて、ゆったりと自分を保って生きる。安心して、人とつながれていたら幸せ。ほどよい我慢と緊張が、愛情で報われるのを感じる。その愛情は「完全」ではなくとも、たしかに存在する。
現実に適用するなら、ほどよく仕事をする(「愛がない」ということを忘れるために激務で働くことがあろう)。
その仕事はある程度あるがままの自分でやれるものがいい。
仕事はたまに面倒なときもあるが、仲良い社員さんと話をして笑っていたことが何だかよかったなと思う。
その本を読んでいて、ふと「飼育する少年」を想起する箇所があった。
その後では「夜の遮断機」を思い出す箇所があった。
これによって、薄井ゆうじの2つの短編に共通して流れているものを感じる。
「飼育する少年」は、社会的存在(周りと比べて背が低い、いじめられる、誰もわかってくれない)から「僕は僕なんだ」という生命的存在へ移行する。
子どもは最初、親や先生の教える世界しか知らずにいる。
生命的存在もまた正しい存在のあり方だと知る。それにより星がいつもと違って見える。(キリンの「美しさ」も関係しているよう。)
「夜の遮断機」の少年は、規範の中にいる。少年が暮らす寮のような建物は、大人に与えられた世界、規範の世界を表している。
父に触れ、意識が途切れる。
生命的存在となった少年はそばに居る加藤さんを「ただ感じている」だけだ。
そして、いつか遮断機が上がったら、また走り出そうと思うのだ。と決意して終わる。
これは生命的かつ社会的な存在への、次なる成長を期待している(大人に与えられた世界から離れた上で、今度は自ら社会に対して働きかける。それが少年に与えられた次の課題である、ということ。)。
この最後の決意は、「飼育する少年」には明記されていない気がする。
つまり「飼育する少年」は大人たちの世界とか規範とか子どもたちの世界とか、そういう「社会」一般からの自立、「ぼくはぼくなんだ」という所で終了している気がする。
私自身は、おそらく「社会」というものが苦手だった。
誰だって演技をしているかもしれない。でも私は受け入れられなかった。
「ぼくはぼくだ」という考えに思い至ってから、その考えにしばらく固執したのだと思う。その考えを描いて終わる「飼育する少年」に、小学生の私は共鳴したのだろう。
「僕は僕なんだ」ということが分かっていれば世界は十分に美しく見える。
その上で社会的存在を目指し続ける私だが、それでもいつまでも「飼育する少年」が心に留まり続けるのだろうか。
最後に、『消えたい』のあとがきから。
結局、他人と現実を共有できなかったことが、僕の苦しみだった、同じ言葉を使いながら違う現実を体験しているという孤独感だった。
追記
結局いちばん身につまされたのは
社会的にふるまうこと、規範を守ることは、「義務感」のためではなく、他者と感情を共有するため、愛情を受け取るためなんだ。
ということかも。
岩橋邦枝『逆光線』、田山花袋『蒲団』
逆光線というタイトルに反骨精神を感じる。これまでの価値観を「逆」にするという意志を感じる。
不倫関係を、初めは男の目線に沿って語られる。途中から「逆」になり、女の目線に沿うようになる。
女性の「主体性確立」というテーマがさりげなく語られる。
女の方で、妻のある男を積極的に誘惑していく。
1956年の作品らしく、読みながらイメージしていたよりも古くて少し驚いた。
当時、驚きを持って迎えられたと書いてあったが、そうだろうなと思った。とても革新的だったはず。
田山花袋『蒲団』(1907年)を読んでいると、少し前まで女性は3つくらいしか表情がなかったのに最近の女性はハイカラで、色んな表情をするから魅力的だ、みたいに書いてあって印象的だった。
女性は子どもを産み育て、家事をするだけでいい(そのためには表情は3つくらいで十分?)、というのが強固だったようで。
『蒲団』に関しては、読みやすくて笑える小説なのに、タイトルに現代的な惹きがなさすぎて読まれてない気もする。
小説家という当時としては超インテリが、自分の恥ずかしい失恋を暴露していて、中年男が少女に恋をする気持ち悪さも全開で、笑える。
これはこれで、漱石や森鴎外の真面目な小説と同時代と思うととても革新的。
フィツジェラルド『グレート・ギャツビー』
・戦間期の小説という感じ
・文章が上手い、人物は軽い
・フィツジェラルドが「良い」と思ったものは何か?
①戦間期の小説という感じ
ずっと夜の場面ばかりなこの小説。上級国民たちの豪華絢爛なパーティを描いた作品でありながら、登場人物たちには暗い影がさしている。
トム・ブキャナンという元アメフト選手の屈強な男が、いつの間にかカルトに傾倒している。アメフトのスター選手から退いて、上がって落ちる時期。ファシズム(ナチスヒトラーとか)が台頭した戦間期。その雰囲気を先取りしているようにすら感じる。
カルトへの傾倒は、日本の1990年代とかもそうだ。上がって落ちる時期。今もコロナ禍で、カルト台頭の気配が少しある。
ジェイ・ギャツビーは戦前に将来を約束する女性がいた。それが戦争から帰ってみると別の男と結婚していた。戦争から帰ると夢が終わっていた、という構図は当時の人々、欧米全体と共通しているだろう。それまでは科学文明がどこまでも明るい未来を開くと夢見ていた。
②文章が上手い、人物は軽い
フィツジェラルドはとにかく文章が上手い。『グレート・ギャツビー』や『金持ちの御曹司』のエッセイ風の文章から始まるあたりとか。けど『グレート・ギャツビー』に人物の内面を深掘りするような直接的描写は少ない。
「エクルバーグ博士の両目」に見られている人物たちは、どこか演技しているように立ち振る舞う。小説でありながら、人工の舞台がうっすら見えるような、演劇的な作品のように感じた。
「間断なく演じ続けられた一連の演技の総体」として、ジェイ・ギャツビーのみならず、トム・ブキャナンを、デイジーを、ジョーダン・ベイカーをそれぞれ演じている感じが少しある。
語り手のニック・キャラウェイがいちばん人間らしい気がする。
③フィツジェラルドが「良い」と思ったものは何か?
最初は、ひとつの光の点を追うような純粋な夢を、良いと言っているのかなと思った。あるいは希望を見出す態度とか。それなら薄井ゆうじ「飼育する少年」と通じているなと(薄井ゆうじはアメリカ文学の影響を受けている、はず)。
しかしだんだん分からなくなった。ギャツビーは本当にグレートなのか?も分からなくなった。
フィツジェラルドはアメリカ中西部で育った。冬が長い田舎で、それゆえ東部のニューヨークの摩天楼に抱いた夢は強烈だったと言われてる。
フィツジェラルドは実際に夢を叶えたかに見えた。小説家として大成し、妻とのめちゃくちゃな遊び方がゴシップの的だったらしい。やがて破綻してしまった。
フィツジェラルドが「良い」と思ったものは何だったかと言えば、本当は「アメリカ東部の夢ある世界」と答えたかったのかな。でもそこは「歪んで」いて「不注意」なろくでもない世界でもあると身に染みて知ってしまった。
もしもそこにギャツビーのような人物がいればと思ったかもしれない。本当はギャツビーのような人々がアメリカ東部を作ったのだと。あるいはギャツビーも中西部から来た人物なので、フィツジェラルド自身を投影していたのかもしれない。東部はむちゃくちゃだったけど、俺の抱いた夢は、俺の東部への挑戦は偉大なものであったと。
いずれにせよ『グレート・ギャツビー』は東部と中西部というアメリカ内でのふたつの世界の話に過ぎないのかもしれない。
先住民を殺して作ったアメリカというものについて、第一次世界大戦に帰結してしまった近代科学・資本主義・帝国主義について、それが「良い」のかどうかはあまり考えていなかったのではないかと、思ってしまった。
つまり私は何が言いたいんだろう。フィツジェラルドが「良い」と主張したかったのは夢とか希望とかアメリカとか近代とかそういうのかと思いきや、もっと個人的な想いというかフィツジェラルド自身のプライベートなことだったのかもと思った。
『グレート・ギャツビー』は文章が圧倒的に上手くて、面白くて、得体が知れなくて、私はなぜか3回も読み返してる。でも実はけっこうプライベートな、範囲としては小さい小説なのかな。だから読み返したくなるのかな。私はまだまだ社会よりも個人、「私」について書かれた小説の方が好きだから。