続いて光 いくつもの

孤独について

しばらく本を読む量が減っていた。あるいは読んでも、感想を言葉にするということが出来なかった。どうしてなのだろう。私の意識や無意識は1日毎に反応するのではなく、数週間や数ヶ月、あるいは数年という単位でひとつの気分を作り上げていくものらしい。

段々とマンガを読むようになり、それも頻度が下がって昔のポケモンのゲームなんかをして余暇を過ごしていたのは、その分のエネルギーを現実のことに使いたかったからだ。仕事やボランティアや友人関係で、とても楽しく過ごせたようである。

 

さて、薄井ゆうじ『飼育する少年』について精読というのをやってみた。これはテクストを論理的に読み解いていくというか、全体の主題は〇〇でそれを伝えるためにこういう語り・構造になっているとか、この部分は全体のなかでこういう機能・役割を持っているとか、統一的な読みを形成していくものだと思う。これはこれで面白いのだが、あくまで小説をよりよく読むためのテクニックである。本当のところ、私がこの短い小説に何度も立ち返ってしまうのは、一つ一つの文章になんとも言えない共感や広がりを感じるからで、これは人間に対するのと同じなのだ。つまり仲良くなる人たちに共通点はあるのだが、中でも特に親しくしている人への感情を説明することは難しいし、別に説明しようとも思わない…。

 

(途中)

 

 

 

精読・『飼育する少年』③

私の中にはもう一人、子どもの私がいる。世の中を渡ってコミュニケーションができる今の私はいわば「渉外」係だ。誰もいない場所に小さくなってメソメソしている子どもの私が、きっとまだ本体だ。

そいつは「飼育する少年」の少年に近い。そいつの存在を認めて優しくなぐさめてやることが、休むのが苦手な私が強制的に自分を休ませるやり方かなと思った。最近少しアクティブで疲れる中で、そう思った。

 

精読①でも書いたけど、「飼育する少年」は三人称で書かれているのがすごく効果的だと思っている。一人称ではこの味わいにならない。

それが何故かと思っていて、今回は少年が見られているということが、味わいに繋がっているのだと思った。

 

「しゃわしゃわと、草を噛むおいしそうな音が頭上から聞こえる。少年は上を見上げることができない。怖いのだ。」

 

「僕は上を見上げることができない。怖い。」との違い。「怖いのだ。」は誰かが少年を見て判断している。暖かい目がある。その目は真の意味での暖かさを持つ。つまり無闇に助けてくれない。全てを少年に委ねて見守り、あなたは怖いのだ。と言っている。

真に母性的な目であり、神の目でもある。それはやはり作者・薄井ゆうじの目なのだろう。

 

子どもの私と「少年」がやっぱり近いなあと感じながら読みつつ、「飼育する少年」の文章は読み聞かせをしてもらっているような気分になる文章なのだと思った。

作者の声が聞こえてくる。作者は自分の作った世界を祝福する。とりわけ「飼育する少年」は薄井ゆうじに祝福されている。子どもの私と「少年」が重なることで、読者が作者に祝福されることになる。

 

「飼育する少年」は私小説ではないが、どことなく私小説なのではと思ってしまった。薄井ゆうじの亡き父親にむけた眼差しが『くじらの降る森』という作品になった。そして少年であった頃の自分にむけた眼差しが「飼育する少年」という形になっているのではないかと。

薄井ゆうじの小説は質にバラつきがある。それを決めているのは誰かに向けられた「眼差し」の有無ではないかと少し思う。

 

 

「飼育する少年」は1995年に書かれた小説らしく、実は私の産まれた年と同じ。そんなことどうでもいいかと言えばそうでもなくて、時代が重なることによる共感ってのがある。

 

「飼育する少年」は固定的・習慣的な世の中の価値観に対して、孤独でアーティスティックな少年が「本当はこうなのになあ…、誰も分かってくれないけど」って言っているようなふしがある。低成長期に入った90年代日本の雰囲気が「飼育する少年」には漂っている。

 

固定的・習慣的なものが減った気がする今でも、響く子どもがいるのか気になる。最近子どもと接する機会が多いが、私たち世代とどれくらい近くて遠いのかよく分からない。そのへんちょっと気にして過ごしたい。

 

 

 

 

 

 

 

一周年。近況。

一年が経ってこのブログの役目は終わったのかもしれない。これを書くことで私はずいぶんと前に進めた気がする。

 

すごくいい一年だったし、色んなことがあった。具体的に言うと平凡かもしれない。

 

・彼女と別れた

・薄井ゆうじに小説の添削をしてもらう講座を始めた

フリースクールでのボランティアを始めた

・二人の友人とこれまでより深い交流をすることができた

・小説の読みが深まった

・このブログを書き続けた

 

今にして思えばどうしてあんなことが起こったんだろうという事がいくつかあり、自分の気持ちに大きな変化があった。

大学時代に作ったたくさんの痛みが成仏していった。ある日家の近くを歩いていると、ふとそう感じた。あ、あの頃のことが成仏している。消えるべきと思っていたものが消えて、帰ってくるべきと思っていたものがいくつか帰ってきている、と。

 

Aの家で二人で飲んで嬉しい言葉をかけてもらったことも、Bと北海道でタイムカプセルを埋めたことも、フリースクールでの思い出も、実はまだ二つくらいある思い出も、少し夢みたいで不思議だ。もちろん美しいだけの思い出じゃない。トーマス・マンはこれを「恩寵」と言っている。

 

「私が現にこうしているということ、しかもここにいるということが、私には夢のように感じられるのです」

ドイツとドイツ人・青木順三

 

小説を書けなくなってしまった。義務的に読むこともなくなり、『地下室の手記』『夏、19歳の肖像』を読んだくらい(それらはめちゃくちゃ面白かった)。

 

今年はいろんな場所に足を運び、活動をする一年かもしれない。別のフリースクールと福祉教育系施設でのアルバイトを始める流れになっている。断ったり断られた所もあるが、面接に行くだけでも学びがあった。

初めて妹の誕生日にカバンを買った。両親と少しだけ深く話をできた。小説を読んだり書いたりするよりも今やるべきことがあるように思った。今はもう私は現実に戻っていくことができる。

 

自分に何ができるんだろう。手探りで不安でも刺激のある日々のほうが生き生きするタイプなのかもしれない。休むのが下手で、飛ばし過ぎて疲れて引きこもるムラっけだけど、だんだんバランスも意識できるといいかもしれない。

 

そしてあまり頭で考え過ぎないでいたい。

 

 

 

 

 

 

中上健次『枯木灘』

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薄井ゆうじへの課題小説3作目を送り、講評が返ってきた。

 

以前指摘されたことは、再度指摘はされなかった。

でもとても分かりにくい小説になってしまっていたっぽい。

少し自覚はしていたし、指摘されて尚更、あーそうだなとなった。

 

前回指摘された「原稿用紙の前では心を開いてください」にプラスして、「書きたいことをひとつに絞る」ことにして次は書こうと思う。

 

書きたいことを一応決めて書き始めるけど、その一点を深めていくのは途中からしんどくなる。

そこで気を逸らして、別のこととか継ぎ足すように書いていくと、楽だからやっちゃうんよな、たぶん。

 

とはいえ前回までは、こりゃどう考えても人には見せられへんな、やったのが、今回はそれっぽい形にはなってきたなという感じがした。

小説を人生の優先事項にするよりは、その分アタマの余裕を取っておいて、人当たりの良さなんかに使いたいなとも思ってるんやけども。

 

 

 

 

 

ここ3週間くらいはずっと『枯木灘』に支配されてた。

読み始めると、一文一文が簡潔で、思ってたより読みやすいなとなった。

でも途中からはしんどくもあった。文章は簡潔だから、やはり内容の濃さだろう。

 

 

「路地」と名づけられた土地の、血族の話。

 

5人兄弟と、それらの家族、再婚した家族、とか出てきて訳分からんかったから、家系図をノートに書いた。

ページを横向きにして、横長にしないと家系図が収まらなかった。それくらい兄弟とか横の広がりが大きい。

木の枝が上にではなく、横に横に伸びて広がっている、というような暗喩が出てくる。

 

 

この小説には、無の瞬間がある。

 

血縁にがんじがらめにされて、土方仕事をしているとそれを忘れられる。

長々と改行なしの文章に挟まれて突然、蝉の声がした。みたいな一文がぽつんと改行して置かれて、なんだかそこで小説の中の時間やらが止まってしまう感じがする。

この小説は無から出発している、という感じがする。何度も無に戻っては、また無から出発する。

 

 

描写が始めから終わりまで、同じことが反復される。

何度も同じ描写を読まされるけど、そこに濃厚な読書体験が立ち現れてくる。

 

主人公は秋幸という人間だが、「秋幸は草木だった」「山は秋幸だった」みたいな描写すらある。

「秋幸は郁男だった」とか「郁男は秋幸ではない」みたいな描写もある。

 

とにかく色んなものが重なり合う。

自然のものと重なり合うし、別の人物と重なり合う。

 

このへんは仏教的な世界だった。

鈴木大拙が『日本的霊性』で描いていた世界を感じた。

 

 

秋幸が妹を犯したと告白すると、父親は「しょうないことじゃ」と笑う。

白痴の子を犯しても、兄弟を殺しても、再婚をしてそれまでの子どもを放ったらかしにしても、繁華街に火をつけても、自分の血族以外を除け者扱いにしても、しょうがない世界?がここにある。

令和の価値観だけでは理解できない世界。

 

どんなことが起こっても、この小説世界はなんだか凪いでいて、静かな感じがする。

不思議とすべての登場人物たちに愛着がわいて、わりと好きになる。

 

 

お盆で親戚が集まってくる場面とか、お祭りの日が日常とちがう特別な日になっていることとか、なんだか懐かしい気持ちがした。

こういう土着的な郷愁を、これから生まれてくる子どもたちはどれくらい感じるのだろう。

 

 

徹底したリアリズム小説であり、ファンタジー的なワクワクドキドキするみたいな展開は皆無といっていい。

たぶん、小説をそこそこ読み慣れたメンタリティでないと、最後まで通読できない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魯迅『祝福』

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の映画を見た。小説は読んでない。

 

京都市近代美術館で3ヶ月に一度映画をやっていて、520円で常設展まで入れる。

前々回の「魚影の群れ」、前回の「牝犬」、今回の「祝福」ととても良かった。

 

1950年代の中国映画。

 

夫を亡くした女性が、妻を欲しがってる男に売られていく。

抵抗するのを男2人が無理矢理拐って、気絶したのをいいことにその首元を掴んで人形みたいにお辞儀とかさせて、婚礼の儀式を勝手にやってしまう。

男は女性を手配したことで大金を貰い、これがとても旨そうに陽気に酒を飲んで宴会をする。

 

「持つもの」や他人を蹴落として裕福な暮らしを得るものが、本当に腹が立つ人物として描かれていた。

「コロセ!」という内なる声が、観客の私の中から聞こえてきた。

 

まだいくか…というくらい女性の不幸は重なって、かなり重みのある作品だった。

 

雪の場面がたくさんあって、後半で女性は雪を見ると、いつも同じ後悔のセリフを繰り返すようになる。

でも、神さまに寄進すれば救われると聞いて、一年がむしゃらに働いて、その金でお寺?の敷居を寄付する。

これで救われたと思っている女性は、雪の降る場面を歩くが、それまでのような後悔のセリフはなく、晴れやかな顔がある。

 

このへんの演出もとても良かった。

 

そこからさらに不幸があり、もう雪を見て後悔する言葉も言えないような姿になる。

ブッダがなんだ」神さまは救ってくれないじゃないか、というのは当時の大きな問題意識だったのかな。

宗教がもはや権力になってしまって、中世が限界を迎えて以降の。

 

 

 

オンライン読書会に2度参加したことがあって、元舞台俳優の人と知り合った。

その人がこないだKindleで小説を出して、とてもしっかり書かれていて面白かった。

知っている人が書いたということもあり、荒削りで剥き出しの、ナマの感覚が伝わってくる気がした。

 

必ずしも作品のクオリティによらない面白さというのもあって、地元の小さな劇団の公演を見に行ったのも楽しかった。

過ぎた時代の世界的評価の高い作品を見るだけが楽しさではないということ。

 

薄井ゆうじへの課題小説は3作目が完成しつつある。

5年くらい会ってなかった知り合いが連絡くれて、読みたいと言ってくれたのでその書きかけのやつを送った。

その人も自分で小説を書いてみようかと言っている。

 

小池桂一の漫画が面白かったから、単行本になってない作品の載ってる雑誌を買った。

90年代に仏教系の新興宗教が出してた雑誌みたいで、少し怖かったけど、アジアの神話とか祭儀を解説してる普通の?文章で面白かった。

最近仲良い友人とは「そもそも人間とは」「そもそも世界とは」みたいな話をして酒を飲みまくる。

 

なんかそういう人間関係を引き寄せられているのかもしれない。

 

コロナ禍でなんかせなと焦って寄付してたのがきっかけで知ったフリースクールでのボランティアは、私自身の居場所になっている。

1番仲良くしてくれてる子が3月で卒業するから、どうなるか分からんけど。

 

機械学習エンジニアの仕事は、自分があまりにも恵まれた環境にいるのが不安でもあった。

私にはラッキーボーイなところがあって、今の資本主義社会において、結局上手くいってしまうような性質を備えてるんだと思う。

『祝福』にもあった、他人を蹴落とす側の人間であることから逃れられない気がして、嫌だったというのがある。

でも今の仕事はとりあえず続けていいのかなと思っている。

 

あとは家族のことを考えたりする。

本当はこれが、私の一番切実なテーマなのかもしれない。

 

昔からの友人がもっとイキリたいと言っていて面白かった。

私も冷静になるばかりよりは、イキって馬鹿をやって恥をかいていたい気がする。

最近やってないなあと思ったけど、よく考えたら友人宅で飲んでほとんど記憶なくなって、コンビニで奇声を上げていたばかりなのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

清水博子『街の座標』

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不潔な文体とか評されるらしいが、私には、誰の言うことも聞かない、どいつもこいつも下らない、という厭世感と孤立感が目についた。

 

「わたしはひとと接して自分にない長所を学ぼうとか、社会経験を積んで人格を磨こうという健気な発想とは無縁だし」「たとえ本人と対面する機会があっても、彼女から薫陶を受けようなどというつもりはない」

 

平凡な読者は、自分の好きなように本を読む。

 

薄井ゆうじやこの小説に、私は自分の中にあるものを読んでいる。

それは厭世であり、だからといって自分自身も詰まらない人間である、そういう軽薄な自分との闘い。

俗物への嫌悪感。

 

絶対的なものの探究心とも繋がっているかもしれない。

特定の個人への執着も、この小説に書かれていて私にも含まれている素質である。

 

上で引用した部分は、私のポリシーとは異なる(私は他人から教えを受けたい)。

でもたとえば川上未映子よりもこの人の方が好きだ。

弱そうなものの味方をしたがる、ただの判官贔屓だろうか。

 

 

一応、いろんな本を読むようにしている。

最近はユゴーノートルダム・ド・パリ』や阿部公房『死に急ぐ鯨たち』という評論を読んだ。

 

でもブログに書くのも、「1軍」の本棚に置くのも、自分自身につながる本を選ぶ。

それでいいのだと思うし、むしろもっとバランスを取ろうとしなくていいかもしれない。

 

自分の中のバランスが取れている楽さを覚えると、バランスを壊すことは中々できなくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

遠野遥『破局』

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「読みやすく」て「クオリティが高い」純文学?として、近年稀に見る作品ではないかと思う。

 

特に深く考え込まなければ、本当にすらすら読めてしまう。

そういう読み方をしても、普通に面白く読める。

 

私が思う「クオリティが高い」には以下のような要素がありそうだ。

思いが込められているか、命がけで書かれているか、真剣に書かれているか、どれだけのエネルギーが注がれているか。

要は、こうやって書いたら売れるだろう、みたいに書かれたらしき外見だけの作品が嫌いだ。

 

イマを生きる人間が作る作品というのは、必要なんだ、と感じたのはこの小説を読んだ時だった。

ドストエフスキーとかジョイスが文庫になっているのに、それを超えられない新しい作品が書かれる意味あるのか?と少し疑っていた。

 

破局』にはことさら現代的なモチーフが多用されてるとは思わない。

でも今を生きる人間が読めば、なんとなくこれは今の小説だと感じる。

 

今の人間にとって、この本にはドストエフスキーにはない読書の楽しみが込められていると思った。

同時代の、これから本を出していくだろうお気に入りの作家がいるということも、とても楽しいことだと思った。

 

自分なりに作った何かが、意味を持つかもしれない。

少なくとも時間と場所を限定すれば。

まあ意味なんて無くてもいいのだけれど。

 

主人公は人々の視線を気にしている。

倫理を守るのだと思ってそうだけど、どこか自分の中に芯がなくて、何をするかわからない所がある。

どことなく普遍的で、どことなく現代的なのである。