続いて光 いくつもの

太宰治『人間失格』

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やはりこの小説は凄い、という気がした。

 

 ここへ来て、あの破れた奴凧に苦笑してから一年以上経って、黄桜の頃、自分は、またもシヅ子の帯やら襦袢やらをこっそり持ち出して質屋に行き、お金を作って銀座で飲み、ニ晩つづけて外泊して、三日目の晩、さすがに具合い悪い思いで、無意識に足音をしのばせて、アパートのシヅ子の部屋の前まで来ると、中から、シヅ子とシゲ子の会話が聞えます。

「なぜ、お酒を飲むの?」

「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから、……」

「いいひとは、お酒を飲むの?」

「そうでもないけど、……」

「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね」

「おきらいかも知れない。ほら、ほら、箱から飛び出した」

「セッカチピンチャンみたいね」

「そうねえ」

 シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞えました。

 自分が、ドアを細くあけて中をのぞいて見ますと、白兎の子でした。ぴょんぴょん部屋中を、はね廻り、親子はそれを追っていました。

(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)

 自分は、そこにうずくまって合掌したい気持でした。そっと、ドアを閉め、自分は、また銀座に行き、それっきり、そのアパートには帰りませんでした。

 

「しんから幸福そうな」という率直な表現が、非常に効果的である。

「セッカチピンチャン」とは主人公の書いている作品だが、彼自身では、「自分ながらわけのわからぬヤケクソの題の連載漫画」と、前の部分でこき下ろしている。

主人公のような人間には「ヤケクソ」に見えるものですら、幸福な親子にとっては大事にできるものなのだろう。

 

「自分という馬鹿者が」という感覚はすこし分かる気がする。私自身も、相手も得をしないような言動を取ってしまい、自己嫌悪することが度々ある。

このように、自分の事を書いているのではないか、と思わせる力が太宰治の文学にはあるらしい。解説に書いてあったことだけど、確かにそうかもしれない。

 

 

2022/06/14追記

小説の「仕掛け」とはなにか。それは遊び心のようなものから始まる。『ハムレット』の冒頭でこっそりセリフが入れ替わっていることで、条理の反転した世界観を示そうとしたり。507号室という部屋番号が、5◯7という「6の不在」を表していたり。『人間失格』においては3枚の手記について語っている人物と、手記の書き手の語り口が同じになっているという説がおもしろい。つまり人間失格であると言った側と言われた側が同一ということになる。呑気に本を広げて、うわーこいつは人間失格やなと思っている読者と、「こいつ」が同一ということになる。それは全く正しいことであろう。

 

 

 

 

 

 

 

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