続いて光 いくつもの

佐藤正午『月の満ち欠け』

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ネタバレというか、読んだ人にしか分からないことを書く。

 

ふーんて感じで読み終えて、少しぼうっとしてると、ふと直感があった。三角という登場人物が瑠璃と初めて出会ったとき、彼らは20歳と27歳。そして冒頭部分までページを戻ってみると、やはり最後に生まれ変わった「るり」は7歳だった。

 

私がなにを直感したかと言うと、作中で書かれていないが、この後三角は死ぬのだ、事故かなにかで、ということを直感したのだ。そして作中の事実を調べ直してみると、やはり年齢が思った通りだった。

 

瑠璃は何度も生まれ変わり、毎回7歳のときに前世の記憶に目覚めて三角を探しにいく。毎回7歳なのは偶然だろうか。それとも作者の意図したことか。今、「るり」は7歳である。ここで三角が死んで生まれ変われば、彼は0歳となる。初めて出会ったときの年齢差に等しくなって、再出発できるのだ。

 

直木賞の選考で◎を付けた一人が、この物語を「嵐が丘」と見た。と書いている。激しい愛憎、愛の自分勝手さ、薄気味の悪い小説。瑠璃は毎回7歳で記憶に目覚めて、その時点での三角に死んで欲しがっている、という妄想を私はしてみた。こんなことは作中に書かれていないが、楽しみ方としてはアリである。

 

みずきは小山内の家庭に入ろうとするが、自分の母親が小山内と結婚して、その娘として関わるだけで満足するつもりだったのだろうか。この小説における生まれ変わる登場人物の異常な執着を考慮すると、そうではないと妄想もできる。梢は小山内の二つ年下なのだから、小山内が死んで2年後に自分が死ねば、二人とも生まれ変わればまた同じ年齢差でやり直せる。そのためには小山内が死ぬ時期を知らねばならない。義娘として家庭に入ることで、それを知ることができる……よね。

 

 

まあしかし、そのような妄想を正しいとすると、最後の場面で三角が現れる必要はなかった。ステーションホテルでの集まりに何故か遅れたまま姿を現さず、途中で事故死したのではと想像させるようにしておけばいい。正木竜之介の死も数年前ではなく、十年前くらいにできなかったのか。それなら正木が生まれ変わったとしたら、瑠璃・三角・正木が同じ年齢差で再び現れるという、薄ら恐ろしい顛末を想像できた。

 

もちろん小説は書かれたもので完成である。もっとこうだった方が、と文句を言いたい訳ではない。ただ、私の読み(拙い)からすると、なんだかこの小説には腑に落ちないところがある。何故最後、三角が現れたらしき描写が書かれたのだろう。正木の死とその時期はどういう意図で書かれたのか。作者の意図が私には伝わらなかったような気がする。

 

 

ちなみに、みずきが梢の生まれ変わりであるというのは途中で読めた。そうでないと清美みずき母娘が登場した意図もわからないし。薄井ゆうじ『樹の上の草魚』でも、あ、これジオラマ壊すだろうな、ってその場面の前から読みが付いた。そういうとき、自分ちょっと小説読めるようになったかもと思ったりする。

 

 

 

 

 

 

 

 

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