「千と千尋の神隠し」
ハクとカオナシは極めて酷似した存在として描かれている、という話。某氏のブログ(全5回)を参考にして書く。そっちの方が面白いからそっちを読んで欲しい。→https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/620607bbc9b14fb7a5045fa75fa6c052
序盤、千尋が息を止めて橋を渡る場面がある。千尋が他の人に見えないよう、ハクが魔法をかけたのだが、ここでカオナシだけが千尋を目で追っている。
ハクとカオナシはどちらも窓から油屋に入り、それぞれ千尋を助ける。どちらも異形化するし、千尋の苦団子を半分ずつそれぞれ食べて、飲み込んだモノや自身の肥大化した欲望を吐き出し、穏やかな姿を取り戻す。
しかしハクが愛を与えたのに対して、カオナシは金目のものしか千尋に与えることが出来なかった。カオナシは千尋に、「私の欲しいものはあなたには絶対に出せない」と言われてしまう。
そう意識してみると、ハクとカオナシは最初と最後だけ同じ場所に居合わせて、その間はずっと、カオナシが消えるとハクが出て、ハクが消えるとまたカオナシが出てというように交互に、重なり合わずに劇中に現れる。
初めの方で千尋が「ハクっていう人、二人いるの?」と聞く。これはまあ、唯一頼りにしていたハクが急に冷たくなり、本当に同一人物なのだろうかと不安になっているセリフなのだが、なんだかそれだけの意味ではない気もしてくる。やはりハクは二人いたのかもしれない。ハクとカオナシ、表裏のような二つの存在として。
身体の中に、吐き出すべきものを感じる。ハクとカオナシのように異形化している。儲けに目が眩んだ湯婆婆は、大切な息子が入れ替わっていてもずっと気付かなかった。その対極に、ヒロインとして成長した千尋の姿がある。
千尋は主人公として、同じ宮崎駿のナウシカらと正反対のような姿だった。ありふれた一般人の見た目に、ふらふらと重心の定まらない身体をしていた。だがハクを救うべく駅に向かい、海の上の線路を歩いていく時、その姿はいつしかナウシカと重なるような凛々しさを得ていた。
母親やハクに「こっち来なさい」「大丈夫」と言われていた千尋が、今度はカオナシや坊に同じ言葉をかける側になる。
宮崎駿はなんだか、とても良い意味で、アホだなあと思った。細部にこれ以上ないほどこだわり抜かれていて、途中何度も笑ってしまった。「千と千尋」をこんなに笑える映画だと思ったのは、今回が初めてだ。その妄想力たるや、凄まじいものだ。
宮崎駿の作品を観ると、背筋が正されるような感覚になるんだな。千尋やナウシカの姿を観ることで、酷似した存在でありながら異なる道を辿ったハクとカオナシに思いを馳せることで。これだけ凄まじい労力で作られた作品は、何度見ても暴かれることがない。何度見ても新鮮な感動を与えてくれる。
銭婆が「実際にあったことは忘れない。思い出せないだけだ」というようなことを言うのだが、千尋の川の向こう側での体験も、無くなりはしないのだ。最後の場面、銭婆にもらった紫色の髪留めが、千尋の髪に光っている。
それにしても凄い映画だった。ちなみに街に「め」「眼」と書かれた看板があるのだが、あれはつげ義春『ねじ式』から着想したイメージだろうな。